表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
166/256

第166話 退き際

 広間の目が、すべてレーヴェに集まっていた。


 絹は語り終えた。帳面も。徽章も。荷の流れも。二十年の嘘は、もうこの広間のどこにも隠れる場所がなかった。守旧派の評議員は口をつぐみ、目を伏せている。もう誰ひとり、レーヴェの筋道を背骨にしようとはしなかった。昨日まで、この老人のひと言で場の潮は決まった。いまは違う。だれもが息をひそめ、いちばん古い席の男が次に何を言うのかを待っていた。


 レーヴェは立ったまま、天秤の像を見上げていた。


 昨夜この手で、三つの重りを用意した。妄言。逆恨み。よそ者の野心。切り捨てた査定長の告発を妄言と呼び、外様の検品係を組合を壊す刃と呼び、令嬢の私情を持ち出す。そう名づけてしまえば、正しさは色を失う。人は事実そのものより事実に貼られた名を見る。二十年、そうやって秩序を保ってきた。


 だが、その三つの重りは、一反の絹の前で砂のように崩れた。


 品は嘘をつかない。人の心は動かせても、品の芯は動かせない。あのグラナの検品係の目が二十年ずっと、それを証してきた。名を貼っても糸は北の糸のままだ。染めても芯に金の色は差さない。レーヴェが積んだ恐れの重りなど、動かぬ品の前では羽根より軽かった。


 長い評議のなかで、レーヴェは一つのことを学んでいた。負けを認めぬ者から、みじめになる。


 だから、認めることにした。


「──もう、よい」


 レーヴェの声が、広間に落ちた。


 誰もがその言葉の意味を測りかねた。まだ抗弁が続くと思っていたのだ。妄言だ、作り話だと、最後まで言い張ると。会頭ならそうしただろう。手柄と体面にしがみつき、沈む舟の上で最後まで喚いたはずだ。だがレーヴェはそうしなかった。


「絹が語った。事実の皿が沈んだ。ならば、それが答えだ。──わしは評議を退く」


 広間がどよめいた。


 守旧派の古参が、思わず腰を浮かせた。レーヴェ殿、と誰かが呼ぶ。まだ道はある。妄言の色を塗り直せば、時は稼げる。そうすがるように言いつのった。この老人が退けば、徽章の秩序そのものが終わると分かっていたからだ。


 レーヴェは、それを手で制した。


「時を稼いで、どうする。この絹が次の絹を呼ぶ。北の玉が。南の薬種が。次々と表へ出てくる。わしが二十年、蔵の底へ沈めてきたものが一つずつな。──それをもう一度、闇へ押し戻すか。あの目のある世で。できはせぬよ」


 冷たく、静かな声だった。おのれの敗北すら、遠い誰かの話のように述べていた。


 レーヴェは、ゆっくりと席を離れた。


「理事ロデリック」


 レーヴェは、かつての若い査定役の名を呼んだ。


 ロデリックが顔を上げる。その隣に、銀の徽章のセレネが立っていた。父娘は、同じ強張った顔で、老いた長老を見ていた。


「蔵の奥に、鍵のかかった棚がある。二十年ぶんの、産地の書き換えの控えだ。どの品がいつ、どこの誰の手へ流れたか。すべて記してある。──わし一人が、握っていた」


 ロデリックが息を呑んだ。テオも目を見ひらいた。組合の闇の、いちばん深いところ。それが、いま、老長老自身の口から名指しされていた。


「秩序を守るため、わしはそれを誰にも渡さなかった。開ければ組合が砕けると思っていたからだ。若い者に古い傷を握らせ、蔵を封じ、鍵をかけ直す。それが番人の仕事だと信じてきた。──だが、もう、隠すべき秩序はない」


 レーヴェは懐から、小さな鍵を取り出した。古い鉄の鍵だ。長いあいだ肌身に付けていたのだろう。にぶく手ずれしていた。それを卓の上に置いた。二十年の嘘を語った、あの絹の隣に。


「持っていけ。被害に遭った者を探し出せ。偽りの品を掴まされた者に、正しい値を返せ。──それが組合に、まだできる、たった一つのことだ」


 誰も、動けなかった。


 二十年、組合の闇を守り続けた男が、その闇の鍵を自らの手で差し出していた。壊すためではない。直すために。秩序を守るためではなく、事実のために。──それは番人が生涯で初めて、秩序ではないものへ差し出したたった一つの誠実だった。


  ◇


 評議の間を出るとき、レーヴェは末席の前で足を止めた。


 俺は立ち上がった。何を言われるのか、分からなかった。この人とは前に一度、二人きりで話したことがある。お前は正しい、だが正しさは秩序を壊す。そう言われた夜だ。あのとき俺は重いものを預けられた気がした。いまも同じ目が俺を見下ろしている。


 レーヴェは、俺をじっと見た。


「お前は、変わらぬな」


 低い声だった。


「あれだけのことが起きても、勝ち誇りもせぬ。恨みもせぬ。ただ視たものを視たと言う。それだけの顔をしておる。──わしが二十年かけて守った壁を崩した男の顔とは、とても思えぬ」


「……俺は、検品係ですから」


「そうだな」


 レーヴェは、かすかに笑ったように見えた。氷がほんの少しだけ、ゆるんだような笑いだった。


「わしは秩序が正しさに勝つと信じてきた。嘘でも、秩序さえあれば人は生きていける、とな。──だがお前のような目が現れると、その理屈は崩れる。事実を隠しきれなくなる。お前はわしの二十年の天敵だったのだ」


 俺は、何と答えていいか分からなかった。天敵と言われても、俺はただ品を視ていただけだ。誰かの秩序を壊そうと思ったことなど、一度もない。


「恨んでは、いません」


 俺はそう言った。


「レーヴェさんが秩序を守ろうとしたのも、たぶん本気だったんだと思います。袖の下のためでも、私腹のためでもなく。──ただ、守るものを、間違えたんじゃないかと」


 レーヴェの目が、わずかに揺れた。


「守るべきは秩序じゃなくて、秩序の下にいる人だった。偽物を掴まされて泣いた人が、たくさんいます。その人たちを見ないことにして守った秩序は、たぶんもう秩序じゃなかった。──ヒビの入った留め金と同じです。きれいに光っていても、いつか誰かの指を切る」


 しばらく、沈黙があった。


 レーヴェは、天秤の像をもう一度だけ見上げた。それから、俺のほうへ小さくうなずいた。


「……お前と、もっと早く会いたかったものだ」


 そう言い残して、レーヴェは広間を出ていった。


 その背は、まっすぐだった。追い出されるのでも、逃げるのでもない。ただ静かに、退いていく背だった。会頭のように喚くこともなく。切り捨てた査定長のように引きずられることもなく。二十年の秩序の番人は、最後に事実のために、自らの鍵を置いて去った。


 俺は、その背が見えなくなるまで見送った。


 勝った、という気はしなかった。ただ、長いあいだ蓋をされていた窓が一つ開いたような。冷たい風と朝の光が、いっぺんに入り込んでくるような。そんな心持ちだった。


 広間に残されたのは、開いたままの闇と、その闇を照らす一枚の絹。そして卓に置かれた、古い鉄の鍵だった。


 組合の、いちばん古い席が、空いた。


 だが俺には分かっていた。壁が崩れただけでは、家は建たない。ここから組合を、どう建て直すのか。誰が、その空いた席に座るのか。──本当の仕事は、これからだった。

本作は毎日更新中です。ブックマークしておくと更新通知が届きます。続きをお見逃しなく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ