第165話 闇を照らす
評議の間は、朝から人で埋まっていた。
高い天井。壁を巡る石の段。金や銀の徽章の評議員が居並び、その後ろに連合の立会いが詰めている。東の名代ザネッティの顔もあった。広間の奥に、天秤の像が静かに立っている。事実の皿と、秩序の皿。
俺は末席にいた。セレネさんとテオさんの隣だ。テオさんの膝には、布に包んだ絹があった。二十年前の、ガリアーニ商会の絹。組合の見本の蔵から持ち出した、動かぬ証しだ。
いちばん奥の、いちばん古い席に、レーヴェがいた。白い長衣。落ちくぼんだ目。少しも動じていない。連合じゅうがこの丘を見ている。組合の二十年が問われている。それでもあの人は、凍った湖のように静かだった。
◇
やがて、理事ロデリックが立ち上がった。
「評議に、申し上げたいことがある」
声は低かったが、広間の隅まで届いた。
「連合を騒がせている組合公認の品の偽りについて。もう隠すべきではない。組合は長いあいだ、南の名産と称する北の安物に上等の判を押してきた。ガリアーニ商会が運び込んだ品だ。産地の欄を墨で消し、二十年、見て見ぬふりを続けてきた」
広間がどよめいた。理事はその声が収まるのを待った。それから、もっと静かな声で続けた。
「その最初の判を押したのは、オットー・レーヴェ殿だ。若き日の、まだ銀の徽章だったころの」
視線が、いっせいに奥の席へ集まった。レーヴェは動かなかった。
「そして」
ロデリックの声が、わずかに震えた。
「その絹に名を連ねた、もう一人がいる。──わし自身だ。若い査定役だったころ、上役の格づけに産地を問わず名を書いた。一度だけ。だが一度でも、偽りに名を貸したことに変わりはない」
広間が静まりかえった。
組合の良心と呼ばれてきた理事が、自らの古い罪を、みんなの前で認めた。誰も、そんなことが起きるとは思っていなかったのだろう。徽章の重い者ほど、青ざめていた。
沈黙を破ったのは、レーヴェだった。
ゆっくりと立ち上がり、広間を見回す。声は少しも荒らげられていなかった。
「痛ましいことだ」
レーヴェは言った。
「ロデリック。お前は疲れておるのだ。娘の情にほだされ、ありもせぬ罪を自ら背負い込もうとしている。二十年前の格づけがいま何を証せるという。品はとうに古び、記した者の多くはもうこの世におらぬ。切り捨てられた査定長オズワルドが撒いた妄言に連合が踊らされているだけのこと。この評議が、そのような作り話に時を費やす要はない」
言葉は、筋が通っているように聞こえた。
妄言。逆恨み。老いた理事の私情。そう名をつけられると、真実までが色あせて見える。守旧派の評議員たちが、わずかにうなずいた。レーヴェは二十年で、人の心を動かす術を知り尽くしていた。
だが。
テオさんが立ち上がった。
「品が、あります」
テオさんは膝の絹を、広間の中央の卓にそっと広げた。古い、南の名産と称された絹。判のあとが残っている。連合じゅうが正価で買ってきた、上等の証し。
「レーヴェ殿は、品が何も証せぬと言われた。──ならば、視ていただきたい」
テオさんが、俺のほうを見た。
俺は卓の前に進んだ。何十もの目が、俺に集まる。徽章も持たない、よそ者の検品係に。俺はいつものように、絹を視た。
……ダメですね、これ。
「これは、南の絹じゃありません」
俺は言った。
「北の蚕の糸です。南の絹に似せて織ってありますが、糸が違う。南の絹は、灯りに透かすと芯に淡い金の色が差します。これは差さない。白いだけです。染めで南の艶に寄せてありますが、地の糸は北のものです。──判は本物です。でも、押された品が偽物なんです」
広間がざわめいた。
セレネさんが進み出た。銀の徽章が、灯りに光る。
「わたしは、銀の徽章を持つ鑑定士です」
セレネさんは絹の糸を、指でつまんだ。
「この糸が北のものだということは、銀の目でも分かります。灯りに透かせば金の色が差すか差さないか。それだけのこと。──つまり二十年前にこの絹を上等と格づけした査定役は、見抜けなかったのではありません。銀の徽章があれば、視えたはずです。視えていて、なお判を押した。見落としではなく見ないことにしたのです」
その言葉が、広間に重く落ちた。
徽章が見抜けなかったのではない。徽章を持つ者が、見ないことにした。それは、レーヴェの二十年そのものだった。
テオさんが、古い帳面を掲げた。
「蔵の帳面です。この絹の格づけ。産地の欄は墨で消されている。運び込んだのはガリアーニ商会。格づけを記した名は──オットー・レーヴェ。その隣に、若き日のロデリック理事」
寝返り組の主任も進み出た。元商会で荷を扱ってきた男だ。
「あっしは、商会でこの手の荷の流れを見てきやした。北の外れのガリアーニから来る品にゃ、いつも産地の書き換えがついて回った。組合の判があれば、誰も中身を確かめねえ。商会が二十年やってきたことと、同じでさ」
四つの証しが、一つの点を指していた。
俺の目。銀の徽章。古い帳面。荷の流れ。品が、語っていた。妄言では、なかった。逆恨みでも、老いた理事の私情でもなかった。品そのものが、二十年の嘘を語っていた。
東の名代ザネッティが、静かに立ち上がった。
「連合は、見届けた」
その声は、広間の隅まで届いた。
「これは切り捨てられた男の妄言ではない。品が語り、徽章が裏づけ、帳面が示している。組合公認の南の名産が二十年、偽りであったこと。連合の商人はみな、この目で見た。もう闇へは戻せぬ」
守旧派の評議員たちが、うつむいた。レーヴェの筋道は、もう誰の背骨にもならなかった。妄言という名は、一反の絹の前で、色を失っていた。
俺は、いちばん奥の席を見た。
レーヴェは、まだ立っていた。取り乱してはいなかった。喚きもしなかった。守旧派が離れていくのを、ただ静かに見ていた。その顔には、追い詰められた獣の色がなかった。
俺は前に、追い詰められた人を見たことがある。手柄を失い、体面を失い、最後まで喚き散らして崩れていった人を。あの人とは、違った。レーヴェは、負けを悟ってなお氷のようだった。
レーヴェが、口を開いた。
「……秩序のためだった」
低い声だった。言い訳ではなかった。ただ、事実を述べるような声だった。
「連合がまだ砂のようだったころ。組合の判だけが人と人をつないでいた。あの絹を偽物と言えば、連合の背骨が折れる。わしはそう信じた。一つの嘘で秩序が保てるなら、飲むべきだと。──それが間違いだったと言うなら、そうなのだろう」
この人は欲のために嘘をついたのではなかった。袖の下でも、私腹でもない。ただ秩序という一つのもののために二十年、嘘を守り続けた。冷たく、まっすぐに。それがいま、崩れた。
レーヴェは、天秤の像を見上げた。
事実の皿が、重く沈んでいた。二十年、傾けまいとしてきた皿が。もう、恐れの重りでは支えきれなかった。
その横顔が何を思っているのか、俺には視えなかった。人の心は、視えない。
だが、あの人が次に何をするのか。広間じゅうが、息を殺して待っていた。
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