第164話 遠い街から
評議は、明日だった。
本部の宿で、俺たちはその日を待っていた。理事がすべてを話す評議。組合の二十年の嘘が明るみに出る日だ。何が起きるか、誰にも分からない。宿の空気は朝から張り詰めていた。
その張り詰めをふいにほどいたのは、表からの車輪の音だった。
ヴィオラさんの隊商だった。月の銀と玉の原石を連合へ運ぶ道すがら、本部へ回ってくれたらしい。その荷台の隅に、グラナからの届け物が積んであった。
「ミレイユさんから。あなたたちへ、ですって」
ヴィオラさんはそう言って、布に包んだ荷と、一通の文を差し出した。かつては商売敵だったこの女が、いまではグラナと連合をつなぐ足になっている。
文はミレイユの筆だった。
グラナは変わりなく回っている。坑道も、市場も、鍛冶場も。心配は要らない。そう、いつもの落ち着いた字で書いてあった。だがその先に、こう続いていた。
そちらのことは、こちらにも伝わっています。組合の古い嘘のこと。理事さまがご自分の名ごと明かされること。──グラナと商いをする連合の店に、声をかけました。組合が自ら正すのを待つ、と。三十いくつの店が名を連ねてくれました。小さな店ばかりです。でも、遠くからでもできることはあります。あなたが視たものを、こちらが形にする。いつもの役割分担です。
俺はその字を二度読んだ。
留守を守るというのは、ただ待つことじゃない。ミレイユさんは遠いグラナからこの評議の場へ、静かに重りを一つ乗せてくれていた。連合の小さな店の、三十いくつの名。それは派手な力じゃない。でも確かな声だった。
セレネさんが文をのぞき込んで、少し笑った。
「ミレイユさんらしいわ。──いちばん遠くにいて、いちばん頼りになる」
その声に、とげはなかった。半年前なら、二人はもっとぎこちなかった。いまはこうして、同じ文を見て、同じように笑える。俺には二人が何を張り合っているのか、昔からよく分からない。だがこうして笑い合っているのを見るのは、悪くなかった。
布包みのほうは、グラナのみんなからだった。
開けると、木の実の砂糖漬けの壺。干した果実。ガロの鍛冶場のかまどで焼いたという、固いパン。それにフィオナさん宛ての、新しい革の手袋。ドニの弟が餞別だと押しつけたらしい。
俺はつい、木の実の砂糖漬けを視てしまった。
……いい品だ。
「これ、いい木の実ですね」
俺は思わず言った。
「実がよく熟れてから採ってます。傷んだのが一つも混じってない。砂糖も煮方がちょうどいい。悪いところが一つもない。──めずらしいな」
「あんた、それ、ほめてるのかい?」
フィオナさんが呆れた顔をした。
「北の安木がどうとか、偽物がどうとか。そんな話ばっかり視てるあんたが。木の実の砂糖漬けを、まじめな顔で品定めしてる」
「え。……あ」
言われて、気づいた。ここのところ、俺が視るのは偽物ばかりだった。産地を偽った絹。匂いだけの香木。判の押された、中身の伴わない品。そんなものばかり視ていた。ひさしぶりに、悪いところの一つもない品を視た気がした。グラナのみんなが当たり前みたいに持たせてくれた、なんでもない木の実の砂糖漬け。
それがやけに、うまかった。
俺は壺をみんなのほうへ差し出した。フィオナさんが一つつまんで、目を丸くした。セレネさんも一つ。テオさんも来て、固いパンをかじった。誰も明日のことは口にしなかった。ただ、グラナの甘さを静かに分け合った。張り詰めた宿の部屋に、つかのま、あの街の台所みたいな匂いが満ちた。
◇
同じころ、グラナでは。
ミレイユは受付の窓から、遠ざかっていくヴィオラの隊商を見送っていた。荷にはあの文と、みんなからの届け物を託した。四日の道の向こうへ。うまく届くだろうか。レイはまた無理をしていないだろうか。あの男はいつも、自分のことを後回しにする。
机の上には、連判の写しがあった。組合が自ら正すのを待つ。そう名を連ねた、連合の小さな店の主たち。ミレイユが一軒ずつ足を運んで頭を下げて集めた名だ。派手な後ろ盾ではない。金の徽章も、大商人の名もない。だが地に足のついた商人たちの、確かな声だった。
留守を守るというのは、待つことではない。ミレイユはそう思う。ここからでもできることはある。あの人が遠くで視るなら、こちらは遠くで、その視たものを支える。それが二人でやってきたやり方だった。
「──気張りなさいよ、レイさん」
ミレイユは誰にともなく、そうつぶやいた。それから帳面を開き、また街を回す仕事に戻った。遠い街の空も、その日はよく晴れていた。
◇
その夜、俺は宿の窓辺で、明日のことを考えていた。
フィオナさんが、剣の手入れをしながら隣にいた。護衛として、ずっと俺のそばにいてくれる。四日の道も、本部の物騒な空気の中も。手には、さっき届いた新しい革の手袋をはめている。
「なあ、レイ」
フィオナさんが、手袋をはめたり外したりしながら言った。
「明日、荒れるかな」
「……分かりません。でも、理事さんは決めた人だから」
「あたしは、あんたの護衛だ。何があっても、あんたには指一本触れさせない。偉い人が何十人いようが関係ない。あんたが視たものをまっすぐ言えるように。あたしがそこを守る」
フィオナさんは手袋をぎゅっと握った。
「あんたは視る人だ。あたしは守る人。──おあいこ、だろ?」
前に、坑道で言った言葉だった。俺がフィオナさんの剣に命を預けてる。フィオナさんが俺の目に命を預けてる。おあいこ。あのとき、フィオナさんは噴き出した。いまは笑わなかった。ただ、まっすぐ俺を見ていた。
俺は少し、くすぐったくなった。
「……はい。おあいこです」
フィオナさんは、ふっと表情をゆるめた。それから照れ隠しみたいに、新しい手袋で俺の頭を軽く小突いた。革のにおいが、かすかにした。
セレネさんは、部屋の隅で明日の段取りを何度も確かめていた。
父の隣に立つ。徽章を持つ者として。暴くためではなく、直すために。その覚悟を、一晩、握りしめているようだった。俺は声をかけられなかった。人の心は視えない。だが、その背中が張り詰めているのは、視えなくても分かった。
俺にできるのは、明日、視たものを視たと言うこと。それだけだ。
グラナから届いた木の実の砂糖漬けを、俺はもう一つ口に入れた。
遠い街の、なんでもない甘さ。それが不思議と、明日へ向かう力になった。三十いくつの名。固いパン。新しい手袋。遠くからでも、みんな、それぞれのやり方でここにいる。
窓の外で、丘の上の本部が青い闇に沈んでいた。
明日、天秤が動く。
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