第163話 徽章とは何か
朝、宿の戸を叩いたのはテオだった。
銅の徽章を胸に、いつになく晴れやかな顔をしている。だがその目は一睡もしていない者の目だった。
「理事が、決めたそうだ」
テオはそう言った。声が少し震えていた。
「明日の評議ですべてを話すと。ガリアーニのことも。レーヴェのことも。──ご自分の若い日のことも、な」
俺はその意味がすぐには飲み込めなかった。理事といえば組合でいちばん重い一票を持つ人だ。セレネさんの父。その人が自分の古い傷まで、みんなの前で明かすという。
「……それは、大変なことなんですよね」
「ああ。組合が始まって以来の、大変なことだ」
テオは笑った。泣きそうな笑い方だった。
◇
俺たちは宿の卓を囲んだ。
セレネさんも来ていた。父の決断を俺たちに伝えに寄ったのだという。窓から朝の光が差している。三人ともろくに眠っていない。それでも部屋の空気はどこか澄んでいた。嵐の前の、妙に静かな朝だった。
テオがふいに胸から自分の徽章を外して、卓の上に置いた。
銅の、小さな円い札。天秤の紋が打ってある。ふちが少しすり減っていた。何年も胸で揺れてきた徽章だ。
「なあレイ。これを視てくれないか」
「徽章を、ですか」
「ああ。おれの銅の徽章だ。──おれはずっと、これが何なのか分からなくなっていた」
俺は徽章を手にとった。ひんやりとした金属。いつものように視た。
「……いい銅ですね」
俺はそう言った。
「よく鍛えてあります。混ぜ物が少なくて芯まで詰まってる。打ったのは腕のいい職人ですね。長く使っても曲がらないし欠けもしない。いい徽章です」
テオはきょとんとした顔をした。それから力なく笑った。
「そうか。銅の質は、いいのか」
「はい。とても」
「だがなレイ。おれが聞きたかったのは、そういうことじゃないんだ」
テオは卓の徽章に目を落とした。
「これはおれが組合に認められた証だ。これがあるからおれの目利きは組合の名で通る。銅は銅なりに、格が低いなりに、それでも徽章持ちだ。──だがその徽章を下げた偉い人たちが、二十年、偽物に判を押してきた。金の徽章のレーヴェが。査定長のオズが。徽章があっても視えていなかった。いや、見ないことにしていた」
テオの指が卓の銅の札をなぞった。
「だったらこの徽章に、何の意味がある。おれはこれを胸に下げていていいのか。偽物を通してきた連中と同じ紋を」
俺は少し考えた。
難しいことは分からない。俺は徽章を持っていない。組合に認められたこともない。ただの検品係だ。でもテオさんの手の中の銅の徽章は、さっき視たとおりいい品だった。それだけは確かだ。
「テオさん。この徽章は悪い品じゃないですよ」
俺はそう言った。
「よく鍛えられたいい銅です。悪いのは徽章じゃない。徽章を持ってて、視えるはずのものを見ないことにした人たちです。品に罪はないでしょう。剣が人を斬っても、悪いのは剣じゃなくて振った人です。徽章も同じだと思います」
テオがはっと顔を上げた。
「徽章は目印みたいなものですよね。この人はちゃんと視ますよ、っていう目印。それを下げた人がちゃんと視れば、徽章はいい徽章のままです。見ないふりをすれば、目印のほうが嘘になる。──悪いのは目印じゃなくて、視るのをやめた目のほうだと思うんです」
俺は卓の銅の徽章を、テオさんのほうへ押し戻した。
「だからテオさんは、下げてていいと思います。テオさんはちゃんと視てる人だから。この徽章はテオさんが持ってるかぎり嘘になりません」
しんとした。
セレネさんがふいに顔を伏せた。テオは卓の徽章をじっと見ていた。俺は何かまずいことを言ったかと不安になった。この人たちには、俺の分からない重みがあるらしい。徽章というものには、俺が思うよりずっと深い、長い年月がしみ込んでいるのだろう。
「……いや」
テオの声がかすれた。
「まいったな。おれが半年うんうん唸って答えの出なかったことを、あんたは飯を食う前にひょいと言う」
「そう、ですか? 俺はただ視たままを」
「ああ。視たままだ。それでいいんだよ、あんたは」
テオは徽章を握りしめた。銅の札が、その手のなかで小さく鳴った。
◇
セレネさんが顔を上げた。目のふちが赤かった。
「わたしの銀の徽章も、同じかしら」
「セレネさんの徽章も、いい銀ですよ。前に視ました」
セレネさんはふっと笑った。それからまじめな声で言った。
「父は明日、自分の徽章に嘘があったとみんなの前で認めるのよ。四十年下げてきた金の徽章に。──怖いでしょうね。でもそれをしないと、金の徽章そのものが嘘の目印のままになる。父はきっと、それがいちばん耐えられないの」
「……理事さんは、強い人ですね」
俺がそう言うと、セレネさんは何か言いかけてやめた。ただ、うなずいた。
「子どものころ、父の金の徽章がまぶしかったの」
セレネさんは、遠くを見るように言った。
「これを下げた人は、何もかも見通せるのだと思っていた。だから徽章がほしくて、鑑定士になった。銀までは手が届いた。──でも、いくつになっても金の徽章の人たちが視ないものが、世の中にはあった。父ですら、見ないふりをしたものがあった。長いあいだ、それが許せなかったの。徽章なんて、飾りだと思った」
セレネさんは自分の胸の銀の徽章に、そっと手を当てた。
「でもレイの言うとおりね。飾りにするのも、目印にするのも、下げた人しだい。──わたしは、飾りにはしない」
俺には人の心は視えない。この人が父のことでどれだけ揺れているのか、その底までは届かない。ただ赤くなった目のふちだけが視えた。それが視えても、俺にできることは何もない。かける言葉も持たない。だから俺は、卓に残った茶をひと口すすった。それくらいしか、できなかった。
窓の外で、丘の上の本部の鐘が鳴った。
明日、評議が開かれる。理事がすべてを話す。徽章とは何のためにあるのか。組合じゅうがそれを、いやでも問い直すことになる。四十年ゆるがなかった問いだ。それを揺らしたのが、たった一人の令嬢と、銅の徽章の若造と、徽章も持たない検品係だった。
俺はそんな大それた話に、自分の言葉が転がり込んでいるとは思っていなかった。ただテオさんの徽章がいい銅だと言った。それだけのつもりだった。
でもテオさんは、外していた徽章をもう一度、胸に下げ直していた。
その手つきは、さっきよりずっとまっすぐだった。
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