第162話 理事の選択
評議の間を出たロデリックの足は、屋敷へは向かわなかった。
丘の裏の古い家に戻っても、眠れぬのは分かっていた。だから理事は本部の回廊をあてもなく歩いた。灯りの落ちた廊下。閉じた扉の列。壁の高いところに、歴代の理事の名を刻んだ石が並んでいる。四十年、この組合に仕えてきた。秩序を守ることが、この身の良心だと信じて。
その良心が、いまレーヴェの手の中にあった。
改革の旗を振る手が、その旗で自らの古い恥を照らすことになる。レーヴェはそう言った。氷のように静かで、少しも間違っていない声だった。若い査定役だったころ、一度だけ名を貸した偽りの絹。その一行が、二十年の時を越えて、いま理事の首に縄をかけている。改革へ踏み出せば、まず割れるのは自分の名だ。良心の理事と呼ばれてきた男が、若き日に偽りの品へ名を連ねていた。娘が知る。連合が知る。
足が止まった。
窓の外に、天秤の像があった。青白い月の光を受けて、二つの皿が静かに釣り合っている。事実の皿と、秩序の皿。組合が四十年、傾けまいとしてきた釣り合いだ。ロデリックは長いあいだ、その像を見上げていた。
この像の下を、若い査定役だったころも通った。あのころは、天秤がまぶしかった。事実と秩序が釣り合う場所。そこで働けることが誇りだった。だが本当に釣り合っていたのか。いま思えば、秩序の皿にはいつも、こっそりと重りが足されていた。見なかったことにした偽り。飲み込んだ嘘。それを積んで、組合はかろうじて水平を保ってきた。ロデリック自身も、その重りを一つ、乗せた男だった。
あの日のことは、覚えている。南の名産の絹。上役レーヴェの、すでに済んだ格づけ。糸の艶が薄いと、気づいてはいた。だが問わなかった。問えば面倒になると分かっていた。若かった。上役に逆らうより、名を書くほうが楽だった。──たった一度。そう自分に言い聞かせて、二十年、忘れたふりをしてきた。
その一度が、いま、目を覚ました。
◇
屋敷に戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。
書斎の机に、母の形見の銀の腕輪が置いてある。セレネが半年前に返し、先ごろ娘の手からもう一度この手へ渡ったものだ。留め金に、目には見えないヒビが入っている。あのグラナの検品係が視抜いた。直すなら今だと言った品だ。ロデリックはそれを手にとった。
灯りにかざしても、ヒビなど見えない。留め金はなめらかで、どこにも傷はない。だがあの男には視えた。放っておけばいつか割れると言った。見えないからと先延ばしにすれば、ある日なんの前触れもなく砕けると。
組合も同じでしょう。娘の声がよみがえった。見えないふりをしてきたヒビが、二十年ぶんも溜まっている。いま直さなければ、いつか全部が砕ける。セレネはそう言った。まっすぐな目で。父をその帳面ごと世に晒すことになると知りながら。
ロデリックは腕輪を握りしめた。
自分は長いあいだ、思い違いをしてきたのかもしれない。秩序を守ることが良心だと思っていた。だが本当は、見えないふりをすることを秩序と呼んできただけではないか。ヒビを見て見ぬふりをして、留め金がなめらかなうちは大事ないと、自分に言い聞かせてきただけではないか。
それは、レーヴェと同じ理屈だった。
背筋が冷えた。レーヴェは悪人ではない。理事にはそれが分かっていた。あの男もまた、秩序のために嘘に目をつぶってきた。連合の背骨が折れるより一つの嘘を飲むほうがましだと信じて。その論理はロデリック自身の胸にも、二十年、同じ形で棲んでいた。ただレーヴェのほうが、それを深く冷たく突き詰めただけだ。
ならば、自分がいま秩序を選べば。
自分は、二十年後のレーヴェになる。冷たく蔵を封じ、若い者に古い傷を握らせ、事実の皿に恐れの重りを積む男に。良心の理事という名だけを残して、中身はとうに腐り果てた番人に。
それだけは、いやだった。
怖くないと言えば、嘘になる。名が割れるのは怖い。四十年築いた信が、一夜で崩れるのは怖い。娘に、情けない父だと思われるのが、いちばん怖い。だが、その恐れに屈して口をつぐめば、腕輪のヒビは残ったままになる。組合のヒビも。連合のヒビも。誰かがいつか、それで指を切る。
ロデリックは机の腕輪に、もう一度目を落とした。
◇
夜が明ける前に、扉を叩く音がした。
セレネだった。眠れなかったのだろう。娘もまた、この夜を一人で抱えていたのだ。
「お父さま。灯りが、ついていたから」
ロデリックは娘を書斎へ入れた。机の上の腕輪を、娘は目に留めた。父がそれを一晩握っていたことを、悟ったようだった。
「セレネ」
理事は口を開いた。声は思ったより静かだった。
「わしは、決めた」
娘の目が揺れた。
「明日の評議で、わしはすべてを話す。ガリアーニ商会の偽り。レーヴェが押した判。──そしてその隣に名を連ねた、若き日のわし自身のこともだ」
「お父さま、それは」
「隠したままレーヴェだけを裁くことはできぬ。それでは、また一つ嘘の上に秩序を積むことになる。わしが逃げれば、組合はまた見て見ぬふりを覚える。それだけは、してはならぬ」
セレネは言葉を失っていた。父が自らの古い傷を、進んで世に晒すと言っている。良心の理事という名を、その手で砕くと言っている。
「わしの名は割れるだろう。良心の理事も、四十年の秩序も、いっしょにな。だが、それでいい。腕輪と同じだ。見えないヒビを抱えたまま光っているより、一度割って正しく直したほうがいい」
ロデリックは腕輪を、娘の手に握らせた。
「お前が正しかった。内側から変えるというのは、こういうことだったのだな。まず、自分の古い傷から正す」
セレネの目に、涙がにじんだ。
「一人で、背負わせはしないわ」
娘は父の手を両手で包んだ。
「わたしも、いっしょに評議に立つ。徽章を持つ者として。父の隣で。──暴くのではなく、直すために」
窓の外が白み始めていた。丘の上の本部が、朝の光に輪郭を取り戻していく。四十年、秩序の番人として通った丘だ。だが今日からは、違う道をその同じ足で歩くことになる。
ロデリックは、久しぶりに背筋を伸ばした。
天秤の像が、朝日の中で静かに立っていた。事実の皿へ、いま、いちばん重い重りが一つ、乗ろうとしていた。
良心の理事が、秩序ではなく事実を選んだ。──だがその選択が評議の間で試されるのは、これからだった。
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