第159話 留守を守る
グラナの朝は、鉄を打つ音で明ける。
ガロの鍛冶場から、かんかんと高い音が響いてくる。市場には日の出前から荷が積まれ、隊商の御者が声をかけ合う。半年前まで、この街は日が高くなるまで眠っていた。いまは違う。ミレイユは受付の窓から通りを眺めてそう思う。人が増えた。店が増えた。街が大きくなった。
その真ん中にいるはずの男は、いない。
レイは本部にいる。フィオナもセレネもテオも。四日の道の向こうで、組合のいちばん古い嘘と向き合っている。ミレイユはここに残ってギルドを回す役目だ。行きたくなかったと言えば、嘘になる。だが誰かが留守を守らねば、この街は止まる。それがギルド長のつとめだった。
通りの向こうで、ドニが荷車を押していた。その弟が、樽の数をかぞえて帳面につけている。かつては商会に買い叩かれ、粗悪な装備を高く掴まされていた面々だ。いまは自分たちの足で商いを回している。ガロの鍛冶場には、月の銀を見に来た職人が列をなしていた。この街の何もかもが、あの検品係が来てから、変わった。当の本人だけが、それに気づいていない。
机の上に、本部からの文が一通あった。
文はテオの筆だった。
証しは立った。だが道はまだ遠い。組合の古い名を揺らすには、評議会を動かさねばならぬ。──そんな短い報せだった。末尾に、レイの一言が添えてあった。
「こちらは大丈夫です。そちらもご無理なく」
ミレイユは思わず苦笑した。組合の底を掘り起こしている当人が留守番のこちらを気づかっている。相変わらずだ。この男は自分がどれほど大きなことをしているか、まるで分かっていない。
文をたたんで、ミレイユは立ち上がった。
留守を守るというのは、ただ待つことではない。街は生きている。毎日、荷が着き依頼が来て、坑道から素材が上がってくる。それをさばき、値を決め、人を動かす。レイの目がなくとも、街が回るようにする。それが、いま自分にできるいちばんの支えだった。
◇
坑道の奥では、トーロが灯りをかざしていた。
月の銀の階層は、いまではグラナの稼ぎ頭だ。青白い金属の筋が、岩肌に走っている。トーロと若い探索者たちは、その筋を、少しずつ慎重に掘り出していく。レイが言い残した掟がある。欲をかくな。安全を確かめてから掘れ。深く掘りすぎて、昔の民は毒の霧を当てて滅んだ。同じ轍は踏まない。
「トーロさん。この先、行かねえのか」
若い探索者が、坑道のさらに奥の暗がりを指した。月の銀の階層の、そのまた奥。まだ誰も足を踏み入れていない、黒い口が開いている。
トーロは首を横に振った。
「あそこは、あの人が戻るまで待つ」
短い言葉だった。だが揺るがなかった。
レイがいれば、床の崩れも毒の気も、事前に視てくれる。魔物が出れば、弱いところを教えてくれる。だがいまは、その目がない。前衛のフィオナもいない。無理に奥へ踏み込めば、誰かが死ぬ。トーロはそれを知っていた。この坑道で誰も死なせない。それが、レイと交わした、口に出さない約束だった。
「おれたちは、掘れるところを掘る。奥は、あの人の目が戻ってからだ」
若い探索者たちは、うなずいた。半年前なら血気にはやって奥へ突っ込んでいたかもしれない。いまは違う。待つべきときを待てるようになっていた。それも、成長というものだろう。
トーロは黒い口のほうへ、もう一度だけ灯りを向けた。奥から、かすかに冷たい風が流れてくる。あの向こうに、何があるのか。月の銀よりもっと深い、何か。トーロの勘が、そう告げていた。だが勘だけで足を踏み入れる坑道ではない。ここは、確かな目だけを頼りに進む場所だ。トーロは灯りを戻し、掘れる筋へと向き直った。
◇
その日、坑道の浅い横穴で、探索組は魔物の骨を拾った。
角のある大きな獣の骨だった。ずいぶん古いものらしい。若い探索者が、それをギルドへ持ち帰った。品定めをするのは、ルカだ。
ルカはダンスクの隊商にいた若者だ。レイに見方を教わって、いまはグラナで荷あらための修業をしている。ルカは骨を手にとり、灯りに透かして指でなぞった。
「……この角の芯、詰まってます。硬くて軽い。上等の削り出しになる。だけど、根元の一本は、内側に古いひびがある。これは薬研で砕く分にしか使えない」
主任が横からのぞき込んだ。寝返り組の、元商会の男だ。
「見分けが、ついてきたな」
「レイさんの受け売りです。芯を視ろ、表に騙されるな、って。──でも、まだ半分も視えてない。分からないものは、分からないって、脇によけてます。あとで、レイさんに視てもらう」
主任は小さく笑った。
分からないものを、分かったふりをしない。それが、いちばん難しいことだった。オズのような男は、分からないものにも格をつけて、袖の下で判を売った。ルカは違う。視えたものだけを視えたと言う。残りは、正直に脇へよける。レイの目は、こうして少しずつ、人から人へと受け継がれていく。七割は自分たちで。残りの三割は、あの人が戻ってから。
街は留守でも回っていた。
◇
夕暮れ、ヴィオラの隊商が街に着いた。
月の銀と、玉の原石を積みに来たのだ。ヴィオラはもう横取りの商人ではない。グラナの決まりを守り、素材を連合へ運ぶ。足はわたくしが、目はあなたがたが。かつては商売敵だったこの女が、いまでは頼れる運び手だ。
だがその日のヴィオラの顔は、いつもより硬かった。
「ミレイユさん。連合で、妙な噂が流れています」
積み荷の検分を終えて声を落とした。
「組合公認の南の名産に、偽物が混じっている──そういう話が隊商のあいだを駆けめぐっているの。わたくしの運ぶ道の、あちこちで。誰かが火をつけたのだわ」
ミレイユの背に、冷たいものが走った。
本部でレイたちが掘り起こした組合の嘘。それが、もう連合の商人たちの耳にまで届き始めている。火は、思ったより速く回っていた。
「これは、グラナだけの話じゃなくなるわ」
ヴィオラは静かに言った。
その夜、もう一度本部への文をしたためた。連合が動き始めている。組合の古い嘘は、もうグラナと本部だけの話ではない。連合じゅうの商いを揺らす、大きな火になろうとしている。
筆を置いて、ミレイユは窓の外の闇を見た。四日の道の向こうに、レイたちがいる。どうか無事で。そう思いながら、また明日、この街を回すのだ。留守を守るこちらの空も、もう静かではいられなかった。
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