第158話 オズの告発
噂は風より速く本部を駆けた。
グラナへ発った令嬢と銅の徽章の若造が、四日の道を戻ってきた。何か重いものを抱えて。古い蔵の帳面。二十年前の南の名産。産地の墨消し。廊下という廊下で、そんなささやきが交わされていた。
オズワルド・ケインは、そのささやきを、飼い殺しの犬のように聞いていた。
査定長の名は、まだ残っていた。だが名だけだった。評議の間には出るな。レーヴェにそう言われて、もうずいぶんになる。オズは日がな一日、本部の隅で、落ちてくる噂の切れはしを拾って暮らしていた。
その噂がいま、ひどく不穏だった。
あの令嬢たちが暴こうとしているのは、レーヴェの古い罪だ。二十年前の産地偽装。ガリアーニ商会。若き日のレーヴェが押した偽りの判。──オズが半年前、蔵の帳面で見つけたのと、同じものだった。
あのときオズはその一枚を小さな紙に書き写して、懐の奥へしまい込んだ。いつかレーヴェに完全に踏み潰されたら、刺し違えてでも引きずり出してやる。そう腹を決めて。だが動かなかった。動けなかった。動けば、真っ先に焼けるのは自分だと分かっていたからだ。半年、その紙きれは、懐の奥で冷たいままだった。
その紙がいま、急に熱を持った気がした。
◇
オズは考えた。夜通し、考えた。
このままでは、レーヴェは倒れる。あの検品係の目と、令嬢と若造の帳面で、じきに底が抜ける。そのときいっしょに沈むのは誰だ。レーヴェの下で汚れ仕事をしてきた、この査定長ではないか。黙って待っていれば、共犯としてまとめて蔵の底へ引きずり込まれる。
ならば先に動く。
自分こそが、レーヴェの罪を暴いた男になればいい。切り捨てられた駒ではない。組合の隠された罪を、勇気を出して世に出した忠義の士。そう名乗り出れば、罪は減じられるかもしれない。あわよくば、査定長の座に返り咲けるかもしれない。そして何より──自分を氷のように捨てたあの老人に、一矢報いることができる。
胸の底の火種が、ぼっと燃え上がった。
思えば、会頭は熱い男だった。怒鳴りはしたが、人の温度があった。レーヴェは違う。氷のように使い、氷のように捨てた。あの静けさがどんな罵声よりこたえた。この意趣返しは、たった一つオズに残された牙だった。
◇
その日の昼、本部の広間に幾人かの評議員が集まっていた。
高い天井。中央に、天秤の像を写した古い織物が下がっている。金や銀の徽章の老人たちが、低い声で何か話していた。その輪の中に白い長衣のレーヴェもいた。
オズは供も連れずにそこへ踏み込んだ。
「お聞きください、皆さま!」
声が広間に響いた。評議員たちがいっせいに振り返った。飼い殺しのはずの査定長が、頬を紅潮させ、懐から一枚の紙きれを引き出して、高々と掲げていた。
「組合の隠してきた罪を、わたしは掴んでおります。二十年前の産地偽装──それに最初に判を押したのは、ここにおられるレーヴェ殿だ! 北の安物を南の名産と偽り、上等の格をつけた。その証しが、この手に!」
広間がざわめいた。
レーヴェは動かなかった。眉ひとつ上げず、ただ静かにオズを見ていた。やがて、その口がゆっくりと開いた。
「オズワルド。その紙に書かれた名を、皆に読んでやってはどうかね」
声は少しも荒らげられていなかった。
「わしの名の、隣だ」
オズの掲げた手がこわばった。
オズは自分の掲げた紙きれを、思わず見返した。手が細かく震えていた。
北の商家の名。格をつけた者の名。レーヴェの名。──そしてその下に、幾つも並ぶ、別の年の記し。混ぜ物の薬種。北の革。そのどれにも、査定長オズワルド・ケインの署名があった。半年前、蔵で書き写したときには、レーヴェの名しか見ていなかった。相手を刺すことしか頭になかった。自分の名までいっしょに写しとっていたことに、いまのいままで、思い至らなかったのだ。
オズ自身が、通してきた偽りだった。
レーヴェの威を借りて査定長まで這い上がるあいだに、袖の下をよこす商家に、いくつも上等の判を押してきた。その渡世の跡が、いま自分の手の中で、逃げようもなく皆の目に晒されていた。
「……これは」
オズの声がしぼんだ。
若い評議員の一人が紙きれをのぞき込んで、低く言った。
「レーヴェ殿の名を暴くその紙に、あなた自身の名も並んでいる。あなたも、偽りに判を押してきたのではないか。──組合を正しに来たのか、それとも、身の道連れを探しに来たのか」
広間の空気が、音を立てて変わった。
もう誰も、レーヴェを見てはいなかった。皆が、頬を引きつらせた小者を見ていた。忠義の士でも、勇気ある告発者でもない。切り捨てられた腹いせに上役を道連れにしようとした、汚れた駒。それが、そこに立っていた。
レーヴェは静かに立ち上がった。
「哀れな男だ」
ただそれだけを言った。責めもせず怒りもせず。憐れむようなその一言が、とどめだった。
「こういう者の口から出る話を、評議会がまともに取り合う要はない。──連れていってやれ。査定長の名も、もう返してもらおう」
◇
オズは両脇を抱えられて広間を引き出されていった。
抗いはしなかった。もう抗う力もなかった。掲げた紙きれは、床に落ちて、誰かの足に踏まれていた。二十年の渡世術も飼い殺しの半年も、たった一枚の紙といっしょに、そこで踏みにじられた。
戸口で、オズは一度だけ振り返った。かつてこの広間はオズの言葉で動いた。査定長のひと言で品の格が決まり、値が決まった。若い評議員は背筋を伸ばし、商家は頭を下げた。その広間が、いま、汚いものでも見るような目で、オズを見送っていた。返す言葉は、何も浮かばなかった。
会頭は熱く燃えて自ら焼け落ちた。オズは冷たく使い捨てられ、最後の意趣返しさえ、我が身に返って果てた。道化の幕の下り方まで、あの二人は違っていた。
広間に、静けさが戻った。
レーヴェは床の紙きれをちらと見ただけで、また評議員の輪へ戻っていった。その横顔に、勝ち誇る色はなかった。ただ一つ、胸の内で数えていた。あの小者の告発は、砕けた。ならばこれで、産地偽装という言葉そのものに、汚れた小者の妄言という色を塗ることができる。令嬢と若造が、どれほど確かな証しを持っていようとも。
古い嘘を暴きに来た駒が、皮肉にも、その嘘を隠す壁の、最後の石を積んでいった。
誰も、それには気づかなかった。
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