第157話 娘と父
メルダートの丘に戻ったのは、四日目の夕暮れだった。
組合本部の白い建物が、沈む日を受けて赤く染まっていた。セレネはその丘の裏へ回った。本部の喧噪から少し離れた、古い屋敷。生まれ育った家だ。父ロデリックがいまも一人で暮らしている。
レイとフィオナは本部近くの宿へ先に送っていた。テオは証しの絹を抱えて宿に残った。ここから先は、セレネ一人の役目だ。父に何と切り出すか、四日の道のあいだ、ずっと考えてきた。
門をくぐると、庭の枯れた花壇が目に入った。母が生きていたころは、季節ごとに花が咲いていた。いまは手を入れる者もなく、乾いた土が広がっている。父はこの花壇に、一度も水をやらなくなった。母を送ってからずっとだ。花を枯らしたまま、秩序の番人として本部に通い続けた。それがこの人の生き方だった。
セレネはこの家を出て、鑑定士組合の寮に入り、それからグラナへ流れた。半年前まで、父とはろくに口もきかなかった。徽章と格式がすべての父。その父の世界を、飛び出したかった。だがいま、こうして戻ってきている。まったく違う用件を胸に抱えて。
父は書斎にいた。
◇
「戻ったのか」
ロデリックは机から顔を上げた。この半年で、また白いものが増えた気がした。金の徽章が、灯りの下で鈍く光っている。組合の評議会でいちばん重い一票を持つ男。だがいまここにいるのは、ただ疲れた父だった。
「グラナへ行ってきたのだろう。銅の徽章の若造と、二人で」
「ええ」
セレネは机の前に立った。回り道をする気はなかった。
「お父さま。組合の蔵の、古い帳面を調べたの。二十年前からの、南の名産の格づけを」
父の目がほんのわずかに動いた。
「産地の欄だけが、墨で消されているものが、いくつもあったわ。絹。玉。薬種。宝飾。どれも北の外れの、同じ商家から来ている。ガリアーニ商会。北の安物を、南の名産と偽って持ち込んだ品よ。組合はそれに二十年、上等の判を押し続けてきた」
ロデリックは何も言わなかった。ただ机の上で指を組んだ。
「グラナで、レイに視てもらったの。二十年前の絹を。──あの品を最初に格づけした査定役が、北の糸だと気づいていながら、判を押した。その名が、帳面に残っていたわ」
セレネはその名を口にした。
「オットー・レーヴェ」
書斎が、しんと静まった。
父は目を閉じた。長いあいだ、そうしていた。驚いてはいなかった。それはセレネにも分かった。父はこの名がいつか自分の前に置かれる日を、知っていたのだ。
◇
「……やはり、そこへ行き着いたか」
ロデリックは絞り出すように言った。
「セレネ。お前は、正しいことをしている。組合が長いあいだ、見て見ぬふりをしてきた嘘だ。暴かれるべきものだ。──だが」
父はそこで言葉を切った。
「暴けば、揺れるのはレーヴェだけではない」
セレネの胸がざわりとした。
「どういう、こと」
ロデリックは立ち上がった。棚から一冊の古い帳面を抜き、机に置いた。埃をかぶった、ずいぶん昔のものだ。父はある頁を開き、それをセレネのほうへ向けた。
南の名産、上等。産地の欄には、墨。運び込んだのは、ガリアーニ商会。
そして格づけを記した査定役の欄に、二つの名が並んでいた。オットー・レーヴェ。その隣に。
「ロデリック」
セレネは父の名を、そこに見た。
目の前が、すっと遠くなった気がした。この半年、セレネは信じていた。父は板挟みの中でも良心を守ってきた人だと。組合の腐りきった上層の中で、ただ一人、まっすぐな理事だと。だからこそ「内側から変える」と父に語り、味方だと思ってきた。その父の名が、レーヴェの嘘の隣に、並んでいる。
「……お父さま」
「わしがまだ若い査定役だったころだ」
父の声は低かった。
「レーヴェは、わしの上役だった。切れ者で、筋の通った、筋の通った先達に見えた。ある日、南の名産の絹が回ってきた。レーヴェが、もう格づけを済ませていた。上等、とな。わしはそのあとに名を連ねるだけだった」
ロデリックは帳面に目を落としたまま続けた。
「妙だとは思った。糸の艶が、南のものにしては薄い気がした。だが上役がすでに上等と決めている。若造のわしがそれに異を唱えられるか。──唱えなかった。産地を問いもせず、わしは名を書いた。深く視ようとも、しなかった。視れば、面倒なことになると、どこかで分かっていたからだ」
セレネは言葉を失っていた。
「一度だけだ。わしが名を連ねたのは、その一度きり。だがその一度で、わしもこの帳面の中にいる。レーヴェの嘘を暴けば、この頁も、いっしょに表へ出る。──組合の良心のような顔をして評議会に座る理事が、若いころ偽りの品に名を貸していた。そう、世に知れる」
◇
セレネは机の端に目をやった。
そこに、母の形見の銀の腕輪が置かれていた。半年前にセレネが父へ返したものだ。留め金に、目には見えないヒビが入っている。レイがそう視抜いて、「直すなら今です」と言った品。父はそれを机の端に置いたまま、まだ直しに出していない。
セレネはその腕輪を手にとった。
「お父さま。この腕輪、まだ直していないのね」
ロデリックははっとした顔をした。
「レイは言ったわ。見えないヒビでも、放っておけば、いつか割れると。直すなら今だと。──組合も、同じでしょう。見えないふりをしてきたヒビが、二十年ぶんも溜まっている。いま直さなければ、いつか、全部が砕けるわ」
父は娘の手の中の腕輪を、じっと見つめた。
「わしの古い名も、いっしょに割れてもか」
「……それは」
セレネは答えられなかった。父を、この帳面ごと、世の目に晒すことになる。母の腕輪を残してくれた、この父を。良心の理事と呼ばれてきた人を、若き日の一度の過ちごと、評議会の前に引き出すことになる。
レイなら、迷わないのだろう。視えたものを視えたと言う。それだけの人だ。北の糸を北の糸と言い、偽りを偽りと言う。そこに親も子もない。だからあの人は強いのだ。だが自分は、そうはなれない。目の前にいるのは、帳面の一行ではない。父だ。
胸の奥が、締めつけられた。
ロデリックは娘の手からそっと腕輪を取り、手のひらに包んだ。
「少し、考えさせてくれ」
その声には、四十年ぶんの重さがあった。
「わしは長いあいだ、秩序を守ることが良心だと思ってきた。だがそれは違ったのかもしれん。──セレネ。お前が正しい。分かっている。分かってはいるのだ。ただ、この老いた足が、まだ、その一歩を踏み出せずにいる」
父はそう言うと、腕輪を握った手を、静かに額に当てた。
窓の外で、日が沈みきっていた。丘の上の本部が、青い闇に溶けていく。
セレネは父の答えを待つしかなかった。だがその夜、屋敷を出る娘の背には、もう一つの影が伸びていた。この父の古い傷を、誰よりも冷たく見つめている者がいる。丘の上の、いちばん古い席の男が。
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