第155話 長老の過去
オットー・レーヴェは自室の窓辺で天秤の像を見下ろしていた。
本部の中庭に立つ、古い石の像だ。組合ができたときからそこにある。片方の皿に事実を、もう片方に秩序を。長いあいだ、レーヴェはそう思って眺めてきた。二つの皿は、いつも危うくつり合っている。どちらかへ傾けば、もう片方が跳ねあがる。
その像を見ながら、レーヴェは静かに考えていた。
蔵の奥が、動いている。
声を荒らげずとも、気配で分かった。夜ごと灯りがともる。古い帳面の埃が、はたかれている。あの令嬢と、銅の徽章の若造。二人が、開けてはならぬ束を開けはじめていた。連合の外からは大商人が徽章を飛び越えようとし、内からは若い者が古い蔵を掘っている。潮が、二方から満ちてくる。
いずれ、この日が来るとは思っていた。
◇
レーヴェは若いころを思い出していた。
まだ査定役の一人にすぎなかったころだ。徽章は銀。目端がきき、筋道の立つ男として、少しずつ頭角を現していた。四十を前にした、あの年。組合はいまとは比べものにならぬほどもろかった。
連合はまだ若く、諸都市はてんでにいがみ合っていた。組合の徽章だけが、かろうじて連合をひとつにつないでいた。この判があるから、遠い街の品も信じられる。この格づけがあるから、見知らぬ相手とも取引ができる。組合の権威は、連合そのものの背骨だった。その背骨が折れれば、連合は砂のように崩れる。誰もがそう信じていた。レーヴェもそう信じていた。
そのころ、一つの品が、レーヴェの手もとに回ってきた。
北の外れの商家が持ち込んだ、南の名産と称する絹。ガリアーニ商会の品だった。ひと目で分かった。南の絹ではない。北の安い糸だ。産地を偽った、まやかしの品。
だがその絹には、すでに前の年の格づけがついていた。そのまた前の年にも。組合の名だたる古老たちが、代々、上等の判を押してきた品だった。いまさらレーヴェが「これは偽物だ」と言えば、どうなるか。
答えは火を見るより明らかだった。
組合が代々、偽物に判を押してきた。その事実が表に出れば、組合の権威は地に落ちる。連合の背骨が折れる。諸都市は組合の判を信じなくなり、取引は止まり、いがみ合いが火を噴く。若い連合は、それに耐えられない。──たった一反の絹の真贋が、連合を崩しかねなかった。
レーヴェは判を押した。
南の名産上等。産地の欄には、墨を塗った。
◇
あのとき、レーヴェは一銭も受け取らなかった。
ガリアーニ商会は袖の下を差し出してきた。レーヴェはそれを突き返した。金のためではなかったからだ。組合の査定役が、まやかしの品に判を押す。それは罪だと、分かっていた。だがその罪を負うことでしか、守れないものがあると信じた。
連合の秩序。組合の権威。それを守るための、必要な悪。
レーヴェはそう自分に言い聞かせた。
一反の絹の嘘を隠すことで、連合ひとつが救われる。ならば隠すべきだ。小さな嘘を一つ飲みこんで、大きな秩序を保つ。それが、この組合の背骨を預かる者の務めだ。──若いレーヴェは本気でそう考えた。冷たい打算ではない。むしろ身を切るような覚悟だった。
だが嘘は一つでは済まなかった。
一つ隠せば、次の年もまた同じ品が来る。前の年に判を押したからには、今年も押さねば、去年の嘘がばれる。ガリアーニ商会は、それを見抜いていた。一度でも判を押させれば、組合はもう後戻りできない。偽りは、年を追うごとに厚みを増した。絹が、玉になり、薬種になり、宝飾になった。墨で消された産地の欄が、一年ごとに増えていった。
気づけば二十年が過ぎていた。
その二十年が、レーヴェを変えた。若いころの、身を切るような後ろめたさは、とうに消えていた。嘘を守ることが、日々のつとめになった。人を疑い、蔵を封じ、口を閉ざす。それを繰り返すうちに心は石のように冷たくなった。声を荒らげることも、なくなった。荒らげる要りようがないからだ。筋道さえ通せば、人は黙る。事実さえ見せなければ、秩序は保たれる。レーヴェは、そういう男になった。なってしまった。
◇
レーヴェは評議会でいちばん古い席に座る男になっていた。
そのころにはもう後戻りの道はどこにもなかった。二十年ぶんの嘘が、蔵の奥に積み上がっていた。それを暴けば、組合そのものが崩れる。だからレーヴェは蔵を封じた。誰にも古い帳面を開けさせなかった。それが、秩序を守る最後の壁だと信じて。
私怨などなかった。欲もなかった。
レーヴェが守ってきたのは、ただ秩序だけだ。連合をひとつにつなぐ、組合という背骨。それを折らぬために、二十年、嘘の番人をしてきた。会頭のように、熱に浮かされて欲をむさぼったわけではない。オズのように、袖の下で品を売ったわけでもない。レーヴェは冷たく、静かに、秩序のために罪を抱え続けた。
その罪をあの検品係が、掘り起こそうとしている。
レーヴェはグラナの男を思い浮かべた。
妙な男だった。欲がない。名声も、金も、力も、望んでいない。ただ視えたものを視えたと言う。それだけの男だ。組合を倒そうとも思っていない。秩序を壊そうという気も、はなからない。──だからこそ、いちばん厄介だった。
欲のある敵は、御しやすい。欲で釣り、欲で脅せばいい。会頭がそうだった。だがあの男には握るべき欲がない。あるのはただ一つ、視えたものを視えたと言う、その性分だけだ。その性分が、二十年守ってきた秩序を、無邪気に崩しかけている。悪意もなく。ためらいもなく。
レーヴェは天秤の像に目を戻した。
事実の皿が、ゆっくりと沈もうとしている。あの男の目が、そこに重りを乗せていく。一反の絹。ひと連なりの玉。視えたものを視えたと言うたびに、事実の皿が沈み、秩序の皿が跳ねあがる。
止めねばならぬ、とレーヴェは思った。
己のためではない。二十年前、身を切って守ると決めた、あの秩序のために。たとえあの男が正しくとも。正しさが背骨を折るなら、その正しさは、止めねばならぬ。
どう止めるか。レーヴェの内ではもう算段がついていた。あの男に欲はない。ならば欲で締める道はない。だがあの男の隣には人がいる。街がある。それを重しにする手はある。そして評議会には一票の要がいた。あの理事だ。ロデリックもまた、古い蔵に無縁ではない。若いころ産地を問わずに通した品が、帳面のどこかに眠っている。その古い傷を握れば、票は締められる。──あの男を、組合を壊す危うい者だと評議の前で示せばいい。正しさとしてではなく、危うさとして。それが、秩序を守る次の一手だった。
レーヴェの目は、静かだった。怒りも、恐れもなかった。ただ二十年前と同じ、身を切るような覚悟だけが、その奥に凍りついていた。
窓の外で、天秤の像が、うすい月あかりに白く光っていた。
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