第154話 触れてはならぬ名
組合本部の古い蔵は、灯りの届かぬ奥まで帳面で埋まっていた。
棚という棚に、革表紙の帳面が積まれている。組合ができて以来の検めと格づけの記しだ。年ごとに束ねられ、ほこりをかぶり、長いあいだ誰も開かずにきた。連合じゅうの品に格をつけ、値を決め、保証を与えてきた組合のいちばん古い記憶が、ここに眠っていた。
その蔵の隅で、セレネは小さな灯りをたよりに帳面をめくっていた。
向かいではテオ・ハルクが別の束を繰っている。銅の徽章が灯りにくすんで光っていた。二人は夜ごとここへ通っていた。人目を避けて、誰にも気づかれぬように。この蔵の帳面に触れることが、どれほど危ういかを分かっていたからだ。
「セレネさん。これを見てくれ」
テオが一冊の帳面を、灯りのそばに滑らせた。
◇
その頁には、南の名産の格づけがずらりと並んでいた。
絹。玉。薬種。宝飾。どれも上等と記され、どれも高い値がついている。組合の保証の判が、一つずつ押されていた。ここまではふつうの記しだ。組合は毎年こうして品に格をつけてきた。
だがテオが指したのは、その端の一列だった。
「産地の記しだけが、消してある」
セレネは目を近づけた。
たしかに、品の名と格と値は書かれている。判も押されている。けれどその品がどこから来たか──産地を記すはずの欄だけが、墨で黒く塗りつぶされていた。ほかの品にはちゃんと産地が書かれている。南の谷。西の里。東の浜。なのに、この一列だけ、出どころが消されていた。
「消されているんじゃない。──最初から、書けなかったのよ」
セレネは低い声で言った。
「南の名産と格づけしておいて、産地の欄に本当の出どころを書けば、嘘がばれる。だから書かずに黒く塗った。南の名産と偽った品ほど、この欄が消してある」
テオがうなずいた。その顔は、灯りの下でこわばっていた。
二人は別の年の帳面を、次々に開いていった。同じことが、いくつもの年に見つかった。産地の消された南の名産。上等の格。組合の判。一年や二年ではない。十年、十五年、二十年。その記しは、蔵のいちばん奥まで続いていた。
◇
セレネはある一点に気づいた。
産地の消された品には、荷を運び込んだ者の名が小さく記されていた。仲買の名だ。それが、いつも同じだった。
「ガリアーニ商会」
セレネはその名を声に出した。
連合の北の外れにある、古い商家だった。由緒だけは長い。だがめぼしい産地を持つわけでも名の通った品を作るわけでもない。北の安物を安く仕入れ、あちこちへ流す。それが表向きの商いだった。
その商会の名が産地の消された南の名産の、ほとんどすべてに顔を出していた。絹の年にも。薬種の年にも。宝飾の年にも。北の外れの商会が、南の名産をこれほど扱えるはずがない。ありえないことが、二十年、帳面のなかで当たり前の顔をして続いていた。
セレネはこの組合で生まれ育った。子どものころから徽章は正しいものだと教わってきた。組合の判は連合でいちばん信じられる印だと。その判が押された品を疑ったことなど一度もなかった。──その足もとに、こんな暗い穴が空いていたのだ。自分の育った家の床下に、二十年、腐った水がたまっていた。それを知らずに、その上で笑って暮らしてきた。胸の底が、しんと冷えた。
「北の安物を、ガリアーニ商会が南の名産と偽って持ち込む。組合がそれに上等の判を押す。産地の欄だけは、埋めずに消す。──それが、二十年の型だったんだわ」
セレネの声は、震えていた。
徽章を持つ査定役が、南の玉と北の玉を見分けられぬはずがない。絹の産地を、薬種の産地を、取り違えるはずがない。それは、徽章を持つ者の初歩だ。つまり見抜けなかったのではない。
「見抜けなかったんじゃない。──見ないことに、してきたのよ」
セレネは自分の胸もとの、銀の徽章に触れた。
この徽章は、品を正しく視るためにある。そう信じてきた。だがこの蔵の帳面は、まるで逆のことを語っていた。徽章は、見ないことにするために使われてきた。都合の悪い産地に、墨を塗るために。組合がいちばん重い判を、まやかしに貸すために。
テオが帳面の格づけの欄を指さした。
「そしてこの格づけを押した査定役の名だ。──古い年のものほど、同じ名が続く」
セレネはその名を見た。
見た瞬間、指先が冷たくなった。
◇
その名を二人が口に出すより先に、蔵の入口で物音がした。
振り向くと、老いた蔵番が立っていた。組合に長く仕えてきた、白髪の男だ。手燭のあかりが、そのしわ深い顔を下から照らしていた。
「……お嬢さま。テオどの。夜な夜な、何をしておられる」
その声はとがめる響きではなかった。むしろ脅えていた。
「その帳面には、触れぬがよろしい。古い年のものには、ことさら。──長く組合に仕えた者は、みな知っております。この蔵には、開けてはならぬ束があると。産地の消された頁には、触れてはならぬ名が書いてある、と」
「その名をあなたは知っているの」
セレネが問うと、蔵番は青ざめて首を振った。
「知りませぬ。知ろうとも思いませぬ。知った者は、みな、組合からいなくなりました。──いまの評議で、いちばん古い席に座っておられる、あのお方が力を握られてから。誰も、この蔵の奥を開けなくなったのです」
蔵番はそれだけ言うと、逃げるように去っていった。
残された二人はしばらく黙っていた。
いちばん古い席。評議会の長老。声を荒らげず、筋道で人を追い詰める、あの静かな男。産地の消された頁に並んだ、古い査定役の名。──二つは、同じ一人を指していた。
「レーヴェさま」
テオがその名をようやく口にした。声は、かすれていた。
「若き査定役だったころから、この人が、ガリアーニ商会の偽りに格をつけてきた。そして評議の長になってからは、蔵ごと、誰にも開けさせなかった。二十年の嘘の、いちばん底に、この人がいる」
セレネは帳面をそっと閉じた。
これは、たまたま紛れ込んだ一つの偽物ではなかった。組合の権威そのものが、二十年、偽りに判を貸してきた。その中心に、評議会でいちばん重い名がある。触れれば、組合ごと揺らぐ名だ。
けれどと、セレネは思った。
揺らぐのが怖くて墨を塗り続けたから、ここまで腐った。埋めたままにすれば、いつか品ごと割れる。母の腕輪のように。掘り起こすなら、他人に暴かれる前に、自分たちの手で。
「帳面だけでは足りないわ」
セレネは静かに言った。
「墨は、あとから塗れる。名も、書き換えられる。帳面は、そう言い逃れができてしまう。動かぬ証しがいる。──品そのものに、二十年の嘘が刻まれた、たった一つの証しが」
その品を、正しく視られる目が、連合にたった一つだけあった。
グラナの、あの検品係の目が。
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