第150話 セレネの覚悟
組合本部にキランの知らせが届いたのは、その日の昼だった。
連合の重鎮たちが非公式に集まった。議題は、グラナの目利き。そしてその目を徽章のあるなしにかかわらず、連合の信用の柱に据える。──そういう話だという。
セレネはその知らせを本部の廊下で耳にした。
評議員たちが青い顔で行き交っていた。連合が、徽章を飛び越えるつもりだ。組合の保証などいらぬと言うつもりか。ざわめきが、天秤の像のある広間にさざなみのように広がっていた。
セレネは壁ぎわに立って、そのざわめきを聞いていた。
みな脅えている。徽章の権威が連合に見放されることを。長いあいだ、徽章こそが連合の信用だった。品の格を決め、値を決め、保証を与える。その力を誰も疑わなかった。その力が、いま外から静かに突き崩されようとしている。
テオ・ハルクが足早にやってきた。
「セレネさん。聞きましたか、キランの話」
「ええ」
テオの銅の徽章が、灯りにくすんで光っていた。この本部でたった一人、レイの目を正しく認めてきた男だ。その顔に、焦りとかすかな熱があった。
「まずいことになった。連合が本気で徽章を飛び越えれば、組合は要らぬものになる。──だが守旧派はもっとまずい手に出る。レーヴェさまが近く評議に諮るそうだ。徽章なき者の折り紙は、連合の帳簿に載せぬ、と。締め出して、力ずくに押さえ込むつもりだ」
「押さえ込めば、連合はもっと離れます」
セレネは静かに言った。
「締め出せば締め出すほど、連合は組合を見限る。組合を守ろうとする手が、組合の首を絞める。──守旧派には、それが視えていない」
テオがうなずいた。
「その通りだ。ではどうすればいい」
セレネはすぐには答えなかった。
組合はいま、二つの崖のあいだに立っている。
守旧派のやり方でいけば、力ずくの締め出しで連合に見放される。かといって何もせず連合に飛び越えられれば、徽章はただの飾りになる。どちらへ転んでも組合は死ぬ。セレネにはそれがはっきりと視えていた。
道は、一つしかない。
組合みずからが、変わること。徽章を、格式の証から、見抜く力の証へ作り変えること。レイの目と争うのをやめて、その目と手を組める組合になること。──それができれば、組合は死なずにすむ。連合に飛び越えられもせず、力ずくの締め出しに走りもせず。
けれどそれを、誰がやるのか。
守旧派はやらない。変わることが負けだと思っている。改革派のテオはまだ若く、銅の徽章では声が届かない。父ロデリックは板挟みのまま動けずにいる。
なら、わたしがやる。
セレネは胸の内でそうつぶやいた。
わたしは銀の徽章を持っている。組合の令嬢として生まれ、組合のなかで育った。組合を誰よりよく知っている。そのわたしが内側から変える。外から壊すのではなく、内側から直す。──それができるのは、たぶん、わたしだけだ。
こわくないと言えば嘘になる。組合の古い壁にたった一人で立ち向かうのだ。それでも胸のなかはふしぎと軽かった。ずっと迷っていた道が、いま一本にまっすぐつながっていた。もう後ろは見ない。
ふと、あの検品係の顔が、浮かんだ。
半年前、セレネはあの男に突っかかっていた。自分こそ本物の鑑定士だと胸を張って。あの男は、一度も争わなかった。ただ視えたものを視えたと言うだけだった。徽章と俺の目は、争うものじゃない。あの男は、いつもそう言った。
あの言葉の意味が、いまなら分かる。
レイは暴かない。組合の腐ったところを見つけても、「暴くのは俺の仕事じゃない」と言う。ただ視て、視えたと言うだけだ。──だったら、暴いて、直すのは、こちらの役目だ。徽章を持つ、わたしたちの。
セレネは自分の胸もとの銀の徽章に触れた。
この徽章は、何のためにあるのか。人を上から見下すためではない。品を、そして組合そのものを、正しく視るためだ。あの男の隣に立って、恥ずかしくない徽章に作り変える。そのために、この銀はあるのだといまはじめて思えた。
◇
その夜、セレネは父の屋敷を訪ねた。
ロデリックはあいかわらず眠れぬ顔をしていた。机の端には、母の形見の銀の腕輪が置かれたままだった。
「お父さま。わたし、決めました」
セレネは父の前に立った。
「組合を内側から変えます。守旧派とも、連合とも違う道を。徽章を、格式ではなく、見抜く力の証に作り変える。──それを、わたしがやります。お父さまに、一人で背負わせはしません」
ロデリックが娘の顔を見上げた。
その目に、驚きと、たじろぎが浮かんだ。娘が、自分の隠している古い傷にまで踏み込もうとしていることを、この父は分かっている。
「……お前は、知らんのだ。組合の古いところに何が埋まっているかを。それに触れれば、わしのような老いぼれの古い恥まで、掘り起こされる」
「知っています。だいたいは」
セレネは静かに言った。
「首飾りがなぜ二十年も宝でいられたのか。あれが、たった一つの間違いではないことも。──でもお父さま。埋めたままにしておけば、いつか品ごと割れます。母さまの腕輪のように。掘り起こすなら、わたしたちの手で。他人に暴かれる前に」
ロデリックは長いあいだ黙っていた。
答えは出なかった。けれどその目のたじろぎの底に、小さな灯りのようなものがともった気がした。娘に先を歩かれた。もう、目をそらしてはいられない。──そういう、覚悟の芽のような灯り。
◇
屋敷を出て、セレネはテオと落ち合った。
「決めたわ、テオ。守るだけじゃ、足りない。攻めましょう」
「攻める、とは」
「徽章が、なぜ力を失ったのか。それを、はっきりさせるの。徽章が悪いんじゃない。徽章を持つ者が、長いあいだ、見て見ぬふりをしてきたから。──その、見て見ぬふりの帳面を、探すのよ」
テオの目が見開かれた。
「……組合の古い蔵の帳面を、か。だがあれに触れれば、レーヴェさまが黙っていない」
「黙っていられないところまで、追い詰めるの」
セレネはまっすぐに前を見た。
「グラナには、商会に泣かされた人たちがいる。組合の粗悪な品で、痛い目を見た人たちが。その人たちの声と古い帳面をつなげば、二十年の嘘の輪郭が見えてくる。──グラナへ、文を書くわ。レイたちに、力を借りる」
夜の廊下の奥で、天秤の像がうっすらと光っていた。
その二つの皿は、まだどちらへも傾いていない。けれど傾ける手が、いま一つ増えた。組合を壊すためではなく、直すために。銀の徽章を持つ、一人の令嬢の手が。
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