第148話 転がり落ちる駒
査定長オズワルド・ケインの朝は、暇だった。
査定長の名は、まだ残っていた。だが名だけだった。
評議の間には出るな。レーヴェにそう言われて、もう幾日になるか。かつては査定の品が朝から山と持ち込まれた。いまは何も来ない。若い評議員は廊下ですれ違っても目礼一つよこさない。かつて子分だった者までが、そっと目をそらして通り過ぎる。組合という重い扉が、静かにオズの鼻先で閉じられていた。
昨日も、こんなことがあった。
廊下で若い評議員たちが立ち話をしていた。銀の徽章の、まだ三十そこそこの連中だ。オズが通りかかると、話し声がぴたりとやんだ。そしてオズが行き過ぎるのを待って、くすくすと笑う声が背に届いた。あれが、組合の宝を偽物と見抜けなかった査定長だ、と。
かつてなら、あの若造どもはオズの前で背筋を伸ばしていた。査定長のひと言で品の格が決まり、値が決まった。その機嫌ひとつで若い者の出世さえ左右された。いまは笑い者だ。廊下の隅の、うすら笑いの的。
あの首飾りの一件で、皆の前で恥をかいたのはレーヴェではなかった。
組合が二十年、上等と保証してきた宝が、あの検品係の目の前で安石の染め物と割れた。その検めを差配していたのが、査定長のオズだ。責めはすべてオズの肩に落ちた。レーヴェは涼しい顔で一歩うしろに下がっていた。使い勝手のいい駒が汚れたから、盤の外へつまみ出す。それだけのことだった。
思えば、会頭は違った。
オズは商会にいたころを思い出す。会頭は熱い男だった。使える者は熱く使い、しくじれば真っ赤になって怒鳴りつけた。怒鳴られはしたが、そこにはまだ人の温度があった。レーヴェは違う。氷のように静かに使い、静かに捨てる。声を荒らげもしない。ただいないもののように扱う。それが、どんな罵声よりも、こたえた。
胸の底で小さな火種がくすぶりはじめた。
◇
あの首飾りが割れたとき、広間の誰もが青ざめた。オズも青ざめた。
だがひとりだけ、顔色を変えなかった者がいた。
レーヴェだ。あの老人は、驚かなかった。組合の宝が偽物だと暴かれたその瞬間、ただ一人、まずいものに触れたという顔を、ほんの一瞬だけ見せた。驚きではない。露見を恐れる顔だった。
知っていたのだ。オズはそう思うようになっていた。あの品がまやかしだと、レーヴェははじめから知っていた。
オズは組合の古い蔵へ足を運んだ。
落ちぶれても、査定長の名は蔵の帳面を開くくらいの役にはまだ立つ。
蔵はかび臭かった。窓のない部屋に、天井まで届く棚。棚には、組合が生まれてから百年ぶんの帳面がびっしりと詰まっていた。品の出入り。格付け。保証の記し。組合の権威は、この紙の山の上に築かれてきた。そして権威というものは、都合の悪い紙も、この山のどこかに眠らせている。
埃をかぶった古い帳面を一冊ずつ引き抜いた。二十年、三十年前の、品の出入りの記し。オズはあの首飾りの出どころを、灯りをかざして指でたどっていった。
南の名産。そう記されていた。
だがその品が最初に組合の蔵へ入ったのは二十年前のことだ。運び込んだのは南の商家ではなかった。連合の北の外れにある、古い商家。北の安物を、南の名産と偽って持ち込んだのだ。そしてその品に「上等」と格をつけ、組合の保証を与えた査定役がいた。
その名の欄に、若き日のオットー・レーヴェの名があった。
レーヴェは、知っていて、通した。北の品を、見抜けなかったはずがない。それでも格をつけ、事を荒立てなかった。二十年、その偽りは組合の権威に守られて生き延びてきた。首飾りは、その氷山の、ほんの一角にすぎない。
同じ商家の名は、帳面の別の年にも、いくつも顔を出していた。絹。薬種。宝飾。どれも南の名産と記され、どれも高い値がついていた。組合の保証の判を、しっかりと押されて。
オズの指が、帳面の上で止まった。
◇
その帳面には、続きがあった。
同じ紙の別の頁に、オズ自身の署名もあったのだ。
オズもまた、粗悪な品に格をつけて通してきた身だった。レーヴェの威を借りて査定長まで這い上がるあいだに、いくつも見て見ぬふりをしてきた。北の品を南と偽り、混ぜ物の薬種を上等と記した。もしレーヴェの古い罪を表へ引きずり出せば、この帳面はオズ自身の罪も、いっしょに白日の下へ照らし出す。
レーヴェを刺せば、返す刃で、自分も刺さる。
オズは、けっして目利きの名人ではなかった。品の値打ちを格式と値で読むことはできた。だがあの検品係のように、芯の傷や産地の作りを見抜く目は持ち合わせていなかった。だからこそ格をつける権を、金と保身の道具にしてきた。上役の望む格をつける。袖の下をよこす商家に、上等の判を押す。それがオズの渡世術だった。会頭のもとでも、レーヴェのもとでも、そうやって風になびいて生き延びてきた。
その渡世の跡が、いまこの帳面に、逃げようもなく残っている。
オズはしばらく帳面をにらんでいた。
やがてその頁を、小さな紙きれに書き写した。北の商家の名。格をつけた者の名。年月。それだけを細かい字で写しとって、懐の奥深くにしまい込んだ。
いまは動かない。動けば、真っ先に焼けるのは自分だ。
だがいつか。レーヴェに完全に踏み潰される、その日が来たら。この紙きれを引きずり出してやる。刺し違えてでも。──それまでは、飼い殺しの犬らしく、おとなしく尾を垂れていよう。オズは、そう腹を決めた。それは、かつて会頭のもとで生き延びた、あのころと同じやり口だった。
◇
蔵を出ると、廊下の向こうから、白い長衣が歩いてきた。
レーヴェだった。
オズは、思わず身を固くした。懐の紙きれが急に重くなった気がした。
レーヴェは、オズのほうを見もしなかった。そこに人がいないかのように、静かに白い裾を揺らして通り過ぎていく。すれ違いざま、その視線がふと、オズの懐のあたりに一瞬だけ落ちた気がした。
気のせいだ。オズは、そう思おうとした。
だが背に、つめたい汗がにじんでいた。あの老人は、どこまで知っているのか。切り捨てたはずの駒が蔵で何を写しとったかまで、あの目には見えているのだろうか。
閉じられた扉の内側で、追い詰められた小者が一枚の紙を握りしめている。
それが、いつどちらへ転がるのか。まだ、誰にも分からなかった。
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