第144話 理事の迷い
ロデリック理事はその夜も眠れずにいた。
机の上に、連合各地から届いた文が広げてある。どれも同じことを言っていた。グラナの目利きを、連合の信用の柱に。徽章を持たぬあの男の目を、正式に認めてはどうか、と。
理事は白いものの混じった髪をかき上げた。
四十年。徽章の秩序を、この手で守ってきた。徽章とは目利きの証だ。銅、銀、金。積み上げた年月と実績が、その色に表れる。品の値打ちは徽章を持つ者が決める。それが連合の信用を支えてきた。長いあいだ、疑いもしなかった。
だがその秩序が検めの場で崩れた。
組合が二十年、上等と保証してきた首飾りが、あの検品係の目の前で、安石の染め物と割れた。徽章を持つ誰もが見抜けなかったものを、徽章なき一人の男が見抜いた。あれを理事は自分の目で見た。忘れられなかった。
文の山が、机の端で灯りに揺れている。
東の交易都市。西の油の都。南の薬種の街。連合の名だたる都市が、そろって同じことを求めてきていた。あの目を、正式に認めてほしい。徽章の外にある目利きを、連合の信用として使わせてほしい、と。理事はこれらの文をただの陳情として退けることができなかった。書いてよこしたのは、連合を動かす実力者たちだ。その声を無視すれば、無視したほうが連合から取り残される。
理事の一票がその行方を分ける。
評議会が真っ二つに割れたとき、天秤を傾けるのは、いつも理事の一票だった。守旧派と改革派。徽章の秩序と、目利きの実利。どちらへ傾けるかで、連合そのものの形が変わる。四十年、公正を旨としてきた理事にとって、これほど重い一票は、はじめてだった。
◇
扉がそっと叩かれた。
娘のセレネだった。夜も更けているのに、まだ起きていたらしい。
「お父さま。まだ、起きていらしたのですね」
「眠れんのだ」
理事は苦笑した。
「お前の言うことが、頭を離れん。内側から変える、か。言うは易い。だがわしが動けば、四十年の秩序が音を立てて傾く。守ってきたものを、この手で崩すことになる」
「崩すのではありません」
セレネが静かに言った。
「直すのです。ヒビの入った留め金を直すように。──視えないふりを続ければ、いつか品ごと割れます。母さまの腕輪が、そうだったように」
理事は娘の顔を見つめた。
いつのまにこんな目をするようになったのか。突っかかってばかりいた、あの気の強い娘が。組合の令嬢としての誇りはそのままに、その誇りの向く先だけが、変わっていた。半年前、娘は「自分こそ本物の鑑定士」と胸を張っていた。いまは違う。本物とは何かを、あの検品係の隣で、学び直してきたらしい。
机の端に、母の形見の銀の腕輪が置いてあった。先ごろセレネが返してよこした品だ。留め金の見えないヒビを、あの検品係に言い当てられた。二十年、肌身離さず持っていて、理事自身は一度も気づかなかったヒビ。あれ以来、理事はこの腕輪を机の端に置き、眠れぬ夜ごとにその留め金を指でなぞってきた。
理事はいまもその腕輪から目を離せずにいた。
「……少し、考えさせてくれ」
理事はそう言うのが、精いっぱいだった。
セレネは深く頭を下げて、部屋を出ていった。
◇
翌日、評議の間の帰りだった。
レーヴェが理事を呼び止めた。
「ロデリック理事。少し、よろしいか」
白い長衣の老人が、廊下の窓辺に立っていた。
理事は身構えた。この老人が世間話のために人を呼び止めることはない。必ず、盤の話だ。
「近く、評議に一つ諮ろうと思うておる」
レーヴェは外の天秤の像を眺めたまま言った。
「徽章なき者の折り紙は、連合の帳簿には載せぬ。徽章持ちの裏書きがあって、はじめて保証とする。秩序を、もう一度はっきりさせておくための決まりだ」
「……あの検品係を締め出すためのもの、ですな」
「締め出す、とは人聞きが悪い。枠を定めるだけだ」
レーヴェがゆっくりと理事のほうを向いた。
「理事。あなたは公正なお人だ。四十年、この組合の秩序を、誰より重んじてこられた。だからこそ分かっておられるはずだ。秩序というものが、どれほど脆いものかを。一つのほころびが、すべてをほどく。長く伏せてきたものが、いちどきに表へ出る」
理事の背に、つめたいものが走った。
長く伏せてきたもの。
その言葉が、理事の胸のいちばん深いところを、静かに突いた。四十年のあいだには、理事とて見て見ぬふりをしたことがなかったとは言えない。上からの品に。下からの品に。問わずにおいたことが。あのころはそれが秩序を守ることだと思っていた。
レーヴェはそれ以上は何も言わなかった。
ただ静かに微笑んで、去っていった。
脅し文句は、一つもなかった。それがかえって重かった。あの老人は、理事の抱えているものを知っている。知ったうえで、思い出させたのだ。お前も、こちら側の人間だろう、と。
◇
理事は一人、廊下に残された。
窓の外で、天秤が夕日に沈んでいた。
娘は言った。直すのだ、と。レーヴェは言った。伏せておけ、と。二つの声が、理事のなかで釣り合ったまま、どちらへも傾かなかった。
目利きの正しさは、もう疑いようがない。連合の実利も、はっきりとグラナへ傾いている。頭では答えは出ている。だがその答えを口にした瞬間、レーヴェの言う「長く伏せてきたもの」が、自分の足もとからも掘り起こされる。四十年の秩序を守ってきた自分自身が、その秩序の埃をかぶっている。
若いころ。理事はまだ、ただの査定役だった。上役から回ってきた品に、格をつける。その品の出どころに、いくつか腑に落ちぬものがあった。南の名産と称する高い品。その値を、そういうものだと思って通した。問えば角が立つ。問わねば秩序は保たれる。あのころのレーヴェはすでに評議の力を握りつつあった。理事は若く、従うほかなかった。──あれは、罪だったのか。ただの若さだったのか。いまも、答えは出ない。
だが一つ、確かなことがある。改革に踏み出せば、まず暴かれるのは、あの検品係の視る品ではない。理事自身が四十年前に見て見ぬふりをした、その古い品なのだ。
公正であろうとすれば、自分の古い傷にも光を当てねばならない。娘に胸を張るには、まず己の埃を認めるところから始めるしかない。それは、四十年の名誉を自らの手で汚すことでもあった。
それができるか。
理事にはまだ答えが出せなかった。
窓辺の天秤の像が、闇に溶けていく。その二つの皿は、いまはまだどちらへも傾いていなかった。
決の日は、刻一刻と近づいていた。
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