第143話 守旧派の焦り
その報せは、日に日に本部へ積み上がっていった。
オットー・レーヴェは評議の間の自席で、届いた文の束に目を落としていた。
東の交易都市。西の油の都。南の薬種の街。連合のあちこちから、同じ名が繰り返し上がってくる。グラナの目利き。徽章を持たぬ、一人の検品係。その男の折り紙がついた品なら安心して買える、と。
白い長衣の老人は、文を一枚ずつ丁寧に読んでいった。
急ぐ様子はなかった。怒ってもいなかった。ただ盤の上で駒がどう動いたかを確かめる棋士のように、静かに読み進めた。
読み終えると、レーヴェは束を机に置いた。
「……徽章なき目利きが、連合の常識になろうとしている」
低い声だった。誰に言うでもない独りごとだった。
◇
この半年、レーヴェは幾度もあの男を止めようとした。
査定長オズワルドを使い、公の検めに引きずり出した。徽章の権威で押しつぶすつもりだった。だがことごとく裏目に出た。検めでは、あの男のほうが正しかった。組合が上等と保証した品が、あの男の目の前で偽物と割れた。正面から目利きで争えば組合が負ける。それが、この半年で分かったことだった。
正攻法は、もう使えない。
レーヴェはそう結論していた。
あの男に悪心はない。徽章を奪おうとも、組合を潰そうともしていない。ただ視える。視えたものを、そのまま口にする。ある意味では、会頭よりたちが悪い。会頭は欲でつまずいた。欲なら、こちらにも読めた。だがあの男には、つけ入る欲がない。欲のない者は、脅せない。すかせない。抱き込めない。ゆえに、いちばん止めにくい。
◇
その日の午後、古参の評議員が一人、レーヴェの部屋を訪れた。
金の徽章を下げた、守旧派の老人だった。長年、レーヴェとともに秩序を守ってきた仲間の一人だ。その顔に、隠しきれない焦りがあった。
「レーヴェ殿。よくない風向きだ」
老評議員は声をひそめた。
「南の三都市が、そろってグラナと組みたがっている。西の油の都も、もう半ば傾いた。評議のなかにも、あの検品係の目を認めるべきだと言う者が増えておる。若い徽章持ちは、ほとんどが向こうだ。──このままでは、徽章の値打ちそのものが、あの男一人に食われる」
「分かっている」
レーヴェは静かに答えた。
「だが、慌てるな。慌てて正面からぶつかれば、また裏目に出る。──あの男の強さは、目にある。ならば、目で勝負をしてはならぬ」
老評議員は、その意味をはかりかねる顔をした。
レーヴェは、それ以上は語らなかった。まだ、盤は組みかけだった。
◇
扉が叩かれ、テオ・ハルクが入ってきた。
銅の徽章を胸に下げた若い評議員だ。本部の中堅。改革派の数少ない声。レーヴェの前ではいつも分が悪い。それでも言うべきことは言う男だった。
「レーヴェ様。連合各地から届いた文のこと、耳に入っております」
テオが切り出した。
「グラナの目利きを、連合の信用の柱に迎えてはどうかという声が、外から上がっています。悪い話ではありません。あの目を組合の側に取り込めば、徽章の信用も、いっそう確かに──」
「取り込む?」
レーヴェが静かにさえぎった。
「テオ。お前は、あの男を取り込めると思っているのか」
「……取り込む、という言い方が悪ければ。手を組むのです」
「同じことだ」
レーヴェはゆっくりと首を振った。
「あの男は視える。しかも、視たものをそのまま口にする。遠慮も手加減もない。──テオ。それがどれほど厄介なことか、お前にはまだ分かるまい」
レーヴェの目が、一瞬、窓の外の天秤の像へ流れた。
「徽章の信用は、長い年月をかけて積み上げてきたものだ。積み上げるあいだには、見ないでおいたほうがよいものも、蔵の奥にしまってきた。あの男の目は、そういうものまで掘り起こす。秩序というのはな、テオ。隅々まで光を当てれば、かえって崩れるのだ」
テオには、その言葉の芯が読めなかった。
見ないでおいたほうがよいもの。蔵の奥。老人が何を指しているのか。若い評議員には、まだ分からなかった。ただ、レーヴェの静かな声の底に、いつもとは違う重いものが沈んでいるのだけは、感じ取った。
「下がってよい。あの目のことは、わしが評議に諮る」
テオは一礼して去った。
◇
一人になると、レーヴェは盤を組み直した。
正面から目利きで争うのは、もうやめだ。かわりに制度で締める。
徽章を持たぬ者の折り紙は、連合の正式な帳簿には載せぬ。あくまで徽章持ちの裏書きがあって、はじめて品の保証とする。そういう決まりを評議会で通す。あの男の目がどれほど正しかろうと、紙の上では徽章の下に置く。連合の常識になる前に、枠にはめてしまう。
目利きの勝負では負けた。ならば、目利きの外で勝てばいい。
これなら、あの男の目を否めなくてもいい。目は正しい、と認めてやってもいい。ただし、その正しさは徽章の裏書きがあってはじめて紙に載る。目利きの勝ち負けを、制度の勝ち負けにすり替える。会頭にはできぬ手だった。会頭は熱くなり、力で押した。レーヴェは冷たいまま、決まりごとで囲う。
だが、その決まりを通すには票が要る。
守旧派だけでは、もう過半に足りない。連合の実利になびいた評議員が、日ごとに増えている。検めで負けたことが、じわじわと票に響いていた。決め手は一票。理事ロデリックの、あの重い一票だ。
レーヴェは静かに目を閉じた。
理事は、公正を絵に描いたような男だ。だからこそ、動かしにくい。情でも金でも動かぬ。ならば、動かす鍵はどこにある。
娘か。あの銀の徽章の令嬢は、いつのまにかグラナの側に立っている。父の一票が娘の立つ場所を左右すると知れば、理事の手は鈍るかもしれぬ。
それとも──あの男とて、長く組合の秩序の内側にいた者だ。四十年、蔵の出し入れを見てきた者に、後ろ暗いところが一つもないとは言わせぬ。誰しも、光を当てられたくない棚の一つや二つは抱えている。理事が守ってきた秩序は、レーヴェが守ってきた秩序と、地続きなのだ。片方の蔵をあばけば、もう片方の蔵の埃も舞う。
その一点を、静かに耳打ちしてやればいい。脅すのではない。ただ、思い出させてやるだけだ。
窓の外で、天秤の像が夕日のなかに黒く沈んでいた。
その片皿に、老人はそっと指をかけようとしていた。
次の評議は、三日後だった。
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