第14話 帳尻の合わせ方
メルダート。バルロ商会、検品場。
朝いちばんに届いたのは、返品の樽だった。
五つ。
「南街道のドラン商店からです。中身は蜜漬けの果実。『下の段が発酵していた』と」
帳面を読み上げる若い衆の声に、検品主任は黙って顎を引いた。
白髪まじりの、岩のような男だ。この検品場で二十年働いてきた。
返品の樽が月に一つ出れば「事故」と呼ばれた時代を、彼は知っている。
先月は九つだった。
今月はまだ半ばで、これが十一個目になる。
「並べておけ。全部開ける」
「全部ですか。今日は出荷が四十件ありますが」
「全部だ」
樽の列の向こうで、銀の徽章の鑑定士が顔を上げた。目の下に濃い隈がある。
「主任。蜜漬けは私が視ます」
「頼む」
鑑定士は樽に徽章をかざし、浮かぶ数字を読んだ。等級と状態が数字で出る。正規の、確かな鑑定だ。
「……上から二段は無事。三段目から下が発酵。原因は果実の傷みです。漬ける前から傷んでいた物が混ざっていた。蜜の質に問題はありません」
「仕入れの段階か」
「はい」
正確だった。いつも正確だ。
視た物については。
「主任」
鑑定士は徽章を下ろして、低く言った。
「私の鑑定は外しません。視た物は外さない。ですが、視ていない物は守れない」
「分かっている」
「一日にこの商会を通る品は数千です。私が視られるのは、根を詰めてもせいぜい二百。残りは抜き取りで、運を天に任せている。これはもう検品ではなく、賭けです」
主任は答えなかった。
同じ言葉を、もっと若い声で聞いたことがある気がした。
その日、四十件の出荷を半日止めて、届いた樽を全部開けた。
傷みは、さらに二つの樽から出た。
出荷は遅れ、急ぎの取引先から苦情が二件来た。検めれば荷が遅れて叱られ、検めなければ返品が増えて叱られる。どちらに転んでも誰かが怒鳴り込んでくる。
前は、どうだったか。
主任は思い出そうとして、気づいた。
思い出せないのではない。怒鳴り込まれた記憶そのものが、ないのだ。あの六年間には。
◇
昼。本部の会議室で、月例の報告会があった。
帳簿方が数字を読み上げる。
「返品と弁済、先月比で三倍。南街道筋の大口二件が、次の契約を『検討中』と返してきております」
長い机の上座で、会頭は指を組んだまま動かなかった。
「一方、今月の収支は黒字を保っております。検品人件費の削減と、仕入れ値の引き下げが効いておりますので」
「ならば良いではないか」
会頭は静かに言った。
「返品は出た分だけ取り替えてやれ。誠実な対応はかえって信用になる。大口には挨拶の品を送れ。景気には波がある。多少の悪い波で、五十年の暖簾は揺るがん」
「……恐れながら」
末席から、主任が手を挙げた。
「検品を増やすべきです。人手を戻し、せめて樽物と武具だけでも全数を検めるべきかと」
「全数」
会頭は初めて主任を見た。
「四十件の出荷を何日待たせる気だ。商いは鮮度だ。検品で荷を腐らせては本末転倒だろう」
「ですが会頭。返品の出どころは、どれも抜き取りの網の目を抜けた品です。網の目を細かくしない限り」
「だから鑑定士を増やす」
会頭は手を上げて主任を制した。
「鑑定士組合に、格の高い鑑定士の派遣を打診してある。銀で足りんのなら、金の徽章を呼べばいい。金はかかるが、組合のお墨付きほど確かな看板はない」
看板。
主任は口を閉じた。この会議室では品質の話が、いつの間にか看板の話に化ける。
「それと、だ」
会頭は声を改めた。
「落ちた分の売り上げは、よそで取り返す。グラナ方面だ。あのあたりは近ごろ妙に羽振りがいいと聞く。量産の武具と日用品を、安値で大きく流し込む。良い品を安く。商いの王道で面を取る」
異存のある者はいなかった。
あるいは、いても黙っていた。
散会のあと、廊下で帳簿方が主任にそっと囁いた。
「主任さんよ。あんたの言う通りかもしれんがね。今月も黒字は黒字だ。黒字の間は、誰もあんたの話を聞かんよ」
「……だろうな」
「帳尻ってのは便利なもんでね。合ってるうちは、何も起きてないことになる」
帳簿方は肩をすくめて去っていった。
◇
夜の検品場で、主任は一人、古い帳面を繰っていた。
『弾き帳』
表紙にはそれだけ書いてある。検品で弾いた品を書き留める控えだ。
几帳面な細い字が、頁の端から端まで詰まっている。
干し肉、樽の三番、酸気あり。革紐、束の中ほどに芯切れ。剣、柄の中に空洞──。
一日に二百件。多い日は三百件。
それが、六年分。
そして主任は知っている。この帳面の年月のあいだ、弾き漏れで客先から返された品は、一件もなかった。
一件も、だ。
「……それは、人の仕事じゃあないだろう」
誰でもできる仕事だと、皆が言っていた。
本人さえ「誰でもできますから」と頭を下げていた。
「主任」
振り向くと、銀の徽章が立っていた。
「その帳面は」
「前の検品係の控えだ」
「……拝見しても」
鑑定士は帳面を受け取り、頁を繰った。
繰る手が、だんだん遅くなった。
「これを、全部、視て?」
「視ていたらしい。樽は底まで。束は芯まで。歩きながら、流れ作業の途中でだ」
「……私は銀の徽章を取るのに、組合の修練で九年かかりました。それでも一日二百が限界です。この数を、この精度で、六年毎日というのは」
鑑定士は帳面を閉じ、表紙を長いこと見つめた。
「主任。この方は今、どちらに」
「グラナだ」
主任は暗い検品場を見渡した。
「うちが『誰でもできる仕事』だと言って、放り出した。──若いの。これは老いぼれの独り言だがな。うちの帳尻は、今月も合ってる。合っているのに、儂は毎晩こうして空の検品場を見回っとる。何かが帳面の外で狂ってる気がしてならんのだ」
鑑定士は答えなかった。
答えの代わりに、もう一度だけ弾き帳を開いた。
几帳面な細い字は、最後の頁の途中で、ぷつりと途切れていた。
◇
同じ夜。ゲルツは会頭の私室の扉を叩いた。
「グラナ方面の安売りの件、ぜひ儂に仕切らせていただきたく」
「お前が? 買い取り方の頭が、なぜ売りに出る」
「あの方面には多少の伝手がございますし、市場の様子も儂がいちばんよく存じております。それに、言い出しかねていたのですが──近ごろあの土地のギルドが、うちを通さん商いを始めたという噂もございますれば」
「ほう」
「大事の前の小事。芽は早めに摘むに限ります」
「……いいだろう。任せる」
廊下に出たゲルツは、口元だけで笑った。
東の山には調べの者を入れた。市場には商会の大波をかぶせる。ギルドの細い稼ぎなど、波の下だ。
沢だか山だか知らないが、儲け話ごと飲み込んでしまえばいい。
倉庫番一人に、何ができるものか。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




