第138話 諸都市の使者
表に止まっていたのは、見たこともない立派な馬車だった。
車体には金の縁取り。御者は揃いの服。どこかの大店か、街の長の持ち物だとひと目で分かった。グラナの庭には、いかにも不釣り合いだった。
降りてきたのは、白髪まじりの紳士だった。
「お初にお目にかかる。わたしはザネッティと申します。東の交易都市、その長の名代でまいりました」
名代と聞いてミレイユの背筋がわずかに伸びた。
俺には、それがどれほどの相手なのか分からなかった。ただ、ミレイユの顔つきが帳場のときと違うので、軽い相手ではないらしいと察した。
「グラナのギルド長、ミレイユです。こちらが、目利きのレイ」
「ああ、あなたが」
ザネッティの目が、俺の上で止まった。
値踏みするような目だった。本部で何度も浴びたあの視線だ。徽章もない地味な検品係が、本当にうわさどおりの目を持っているのか。そう疑う目だった。
「うわさは、連合じゅうに広がっております。商会を傾けたのも、ダンスク保証の崩れた連合を立て直したのも、もとをたどればグラナの目利きだ、と。──正直に申せば、わたしは信じておりません。一人の検品係に、そんな芸当ができるものか」
「俺もそう思います」
俺が言うと、ザネッティは虚をつかれた顔をした。
「……ほう?」
「商会を傾けた覚えも、連合を立て直した覚えもありません。俺はグラナで品を視ていただけです。うわさのほうが、勝手に大きくなったんだと思います」
ザネッティはしばらく俺を見ていた。それから供の者に合図した。
「ならば、試させていただこう」
◇
布の包みが、卓に置かれた。
ザネッティ自らが、それを開いた。中から出てきたのは、一反の織物だった。
深い藍。きめの細かい織り。光の角度で模様が浮かぶ、上等な品だった。
「東の都で、最上と評判の緞子です。値は、目の玉が飛び出るほどします。──これに、何か言えることがおありか」
俺は織物を手に取った。
窓辺へ寄せて、光に透かす。織り目を指でなぞる。端の縫い目を確かめ、裏を返してもう一度透かした。
「織りは、たしかに見事です」
俺はまず、そう言った。
「糸の張りも、染めの深さも、文句のつけようがない。──ただ」
「ただ?」
「端から、三寸ほど内側。ここの染めが、ほんのわずかに薄い。たぶん、染めの釜の端に当たっていた場所です。仕立てて袖に出れば、晴れた日に色の差が見えます。値の張る品だからこそ買った人は気づくでしょうね」
俺は薄いところを指で示した。
ザネッティが顔を寄せた。供の者も覗き込んだ。だが最初は誰も分からなかった。けれど光の向きを変えると、たしかにそこだけ、藍がひと刷毛ぶん淡かった。
ザネッティの顔から、値踏みの色が消えた。
「……二十年、布を扱ってきた。この緞子も、染め元から最上として買い付けた品だ。それを、初見で。──しかも、わたしには言われるまで見えなんだ」
「悪い品じゃありません」
俺は織物を返した。
「ただ、最上の値で売るなら、この一点を黙っているのはよくない。買う人に断ってから値をつければ、後で揉めずにすみます。それだけのことです」
◇
ザネッティは次の包みを開かなかった。
もう試す必要を感じなくなったらしい。代わりに深く息をついて、本当の用件を切り出した。
「単刀直入に申し上げる。我が都の長は、あなたをぜひ一度、都へお招きしたい。蔵の品をすべて検めてほしい、と。──むろん相応の礼はいたします。あなたを召し抱えたいという話まで、長は口にしておりました」
召し抱える。
その言葉に、ミレイユの目が静かに細くなった。
「ザネッティ殿」
ミレイユがやわらかく、しかしはっきりと割って入った。
「レイは、グラナのギルドの目利きです。よその都に召し抱えられる身ではありません。──品を視てほしいという頼みなら、喜んでお受けします。ですが順番がございます。連合じゅうから、同じ頼みが届いておりますので」
「同じ頼みが、ほかにも」
「ええ。あなたの都だけ先に、というわけにはまいりません。どの街にも、同じように向き合わせていただきます。それがグラナの流儀です」
ザネッティはしばし黙った。
それから苦笑した。
「……なるほど。気位の高いのは、目利きだけではないらしい」
悪い顔ではなかった。むしろ、感心したような笑いだった。ザネッティは丁重に礼を述べ、また来ると言い置いて、立派な馬車で帰っていった。
◇
馬車を見送って、ミレイユが小さく息を吐いた。
「疲れたわ」
「俺は布を一反視ただけですけど」
「あなたはそれでいいの」
ミレイユは帳場の椅子に腰を落とした。
「大変なのは、こっちよ。どの街も、あなたを欲しがっている。一つの街に肩入れすれば、ほかの街がへそを曲げる。断れば、その街を敵に回す。──連合の大きな街を相手に、機嫌を損ねず、誰にも特別をやらず、それでいて品はちゃんと視る。そういう綱渡りを、これから毎日やることになるの」
俺はようやく少しだけ事の大きさが分かってきた。
俺が品を一つ視るたびに、その後ろでミレイユが街と街のあいだの天秤を取っている。俺が「視たまま言うだけ」で済むのは、ミレイユがその面倒を全部引き受けてくれているからだった。
「……すみません。俺、視るだけで」
「いいのよ」
ミレイユは笑った。
「それぞれの役目があるの。あなたは視る。わたしは捌く。──半年前は、わたし一人で頭を下げて回っていた。いまは、断る側に回っている。これはぜいたくな悩みよ」
その日も、夕方までに二人の使いが来た。
西の油の都から。南の薬種の街から。みんな、俺に会いたがった。みんな、グラナと縁を結びたがった。半年前には名も知らなかった街が、いまは競うように頭を下げてくる。
夜、帳場の片づけをしていると、トーロがぬっと顔を出した。
相変わらず口数の少ない男だ。短く、こう言った。
「レイ。坑道の、あの扉。──あんたが戻ったら開ける、って約束だった」
俺は思わず肩の力が抜けた。
偉い人の使いより、布の値打ちより、坑道の暗がりのほうが、よほど俺の性に合っていた。あそこなら、視るべきものははっきりしている。床が抜けるか。毒の霧があるか。視たまま言えば、それで誰かの命が守れる。
「ああ。明日、行こう」
俺がそう答えると、トーロの口の端が、ほんの少しだけ持ち上がった。
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