第134話 静かな長老
次の検めの日取りが、ようやく決まった。
その前の晩のことだった。本部の小姓が俺の客間を訪ねてきた。レーヴェ評議員が俺と二人だけで話したいという。
フィオナは渋い顔をした。あの冷たい老人と二人きりにするのは気が進まない、と。セレネも止めようとした。けれど俺は行くことにした。逃げる理由がなかったし、相手が何を考えているのか少しだけ知りたい気もした。
俺には人の腹のなかは視えない。だから本人に会って言葉を聞くしか、知る方法がなかった。
◇
レーヴェの部屋は、本部のいちばん奥にあった。
灯りをひとつだけ灯した静かな部屋だった。書物が壁いっぱいに積まれ、窓辺に古い天秤が置かれていた。白い長衣の老人が天秤のそばに座っていた。
「来たか。座れ」
レーヴェが、向かいの椅子を指した。
俺は腰を下ろした。老人はしばらく俺の顔を眺めていた。値踏みするような目だった。けれどそれは品を値踏みする目とは少し違った。もっと深いところまでこちらを測ろうとする目だった。
「お前は、不思議な男だ」
レーヴェが、低く言った。
「徽章もない。後ろ盾もない。学んだ来歴もない。ただ目だけがある。その目で組合が二十年あがめた品を安石と言い当てた。──正直に言おう。お前の目は本物だ。わしの長い目で見ても、まやかしではない」
褒められたのか、と俺は思った。
けれど老人の声に温かさはなかった。事実を一つ淡々と置いただけのような声だった。
「ありがとうございます」
俺はとりあえずそう返した。レーヴェはふっと息を漏らした。笑ったのかもしれない。
「礼を言うな。これは褒め言葉ではない。──お前の目が本物だからこそ、お前は厄介なのだ」
◇
「いいか、目利きの男」
レーヴェが、天秤に手を伸ばした。
古い天秤の皿を指でそっと押した。皿がゆっくりと傾いて、また戻った。
「この組合は長い時をかけて、この釣り合いを作ってきた。徽章という決まり。格づけという秩序。それで皆が同じ物差しで品を測れるようにした。誰が見ても同じ等級。それが秩序だ。秩序があるから連合の商いは回る」
俺は、黙って聞いていた。
「お前はその釣り合いに、外から指を入れた。徽章のない目で徽章の格づけが間違っていると示した。──お前の言うことは、正しい。安石は安石だ。それは動かせぬ。だがな」
レーヴェの指が、天秤の皿を強く押した。
皿が大きく傾いて、もう一方の皿が跳ね上がった。
「正しさは秩序を壊す。お前一人の正しい目が、組合じゅうの徽章を疑わせる。皆が自分の徽章を信じられなくなる。物差しが揺らげば、何を信じて品を測ればいい? 連合の商いは、何を頼りに回ればいい? ──お前は正しい。だがその正しさは、毒にもなる」
「……」
俺は、少し考えた。
言っていることは、分かる気がした。確かに、俺がよけいなことを言うたびに偉い人たちは頭を抱えている。組合の秩序とやらを俺は知らないうちに揺らしているらしい。
でも。
「俺は、秩序を壊したいわけじゃありません」
俺は、ゆっくりと言った。
「俺は安石を安石と言っただけです。火紅石だと言われた品が火紅石じゃなかった。だから、そう言った。──それだけです。徽章とけんかしたいわけでもない。誰かの物差しを壊したいわけでもない。俺の目と徽章は、争うものじゃないと思います。視えたものを視えたまま言う。俺にできるのは、それだけなので」
レーヴェは、しばらく俺を見つめていた。
その目の奥が、わずかに動いた気がした。
「……視えたものを、視えたまま、か」
老人は、低くつぶやいた。
「お前はこわい男だな。悪意もなく欲もなく、ただ視えたものを言う。だからこそ誰も止められぬ。悪人なら握りつぶせる。欲のある者なら買える。だがお前は、どちらでもない。──ただ、視える。それは、いちばん始末に困る」
◇
灯りが、ゆらりと揺れた。
レーヴェは天秤から手を離した。皿がゆっくりと水平に戻っていった。
「一つ、教えておこう」
老人の声が、いっそう低くなった。
「秩序というものは、きれいなだけでは保てぬ。長く保つには、見ないでおくべきものがいくつかある。蔵の奥に、ずっと眠らせてきたものがな。それを暴けば確かに正しい。だが、その下で回ってきたものがすべて止まる。──お前は、もう一つ触れてしまった。あの首飾りだ。あれは、触れてはならぬものだった」
俺の頭の隅で、何かが引っかかった。
あの首飾り。割れた赤石。芯まで届かなかった、染めの赤。ベッケンさんですら見抜けなかった二十年前の偽り。あれを蔵に入れた者は誰だったのか。レーヴェは今、まるでそれを知っているような口ぶりだった。
「あの首飾りのこと、何か、ご存じなんですか」
俺は、尋ねた。
レーヴェの顔は動かなかった。冷たい仮面のように何の色も浮かべなかった。
「知らぬ。ただ、古いものには古い事情がある、と言っているだけだ。──お前は視えるものを視ればいい。視えぬものまで掘り起こそうとするな。そこから先は、お前の目の届かぬ領分だ」
それは、答えのようでいて、答えではなかった。
知らぬと言いながら、触れるなと言う。俺には人の腹のなかは視えない。けれど、品を視るときと同じ違和感がかすかに胸をかすめた。上等に磨かれた言葉。その芯のところに、何か別のものが沈んでいる。そんな感じが、確かにあった。
「もう下がってよい」
レーヴェが、窓のほうへ顔を向けた。
話は終わりだった。俺は立ち上がって頭を下げた。部屋を出る間際、もう一度だけ老人の背を見た。白い長衣が、灯りの中でひどく静かに沈んでいた。
廊下に出て、俺は息をついた。
レーヴェは俺を脅したわけでも、買おうとしたわけでもなかった。ただ、これ以上踏みこむなと告げただけだった。けれど、その「踏みこむな」が、いちばん引っかかった。
踏みこむなと言われた場所には、たいてい見られたくないものがある。
それは、品を視てきた俺の長い経験が告げていた。蔵の奥に眠る二十年の偽り。あの静かな老人が守っているのは、組合の秩序だけではない気がした。
あの人は、秩序のために嘘を守っているのか。それとも、自分のために秩序を盾にしているのか。俺には、その見分けがつかなかった。品の真贋なら、芯を視れば分かる。けれど人の腹は、何度のぞいても、ただ暗いだけだった。
俺は自分の手のひらを見た。何も握ってはいない。けれど、何か重いものをいつの間にか預けられたような気がした。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




