第127話 裁く側の娘
父の屋敷は、本部の丘のすぐ裏にあった。
セレネ・ロデリックは、半年ぶりにその門をくぐった。石畳は記憶のままだった。庭の古い樫の木も、玄関の重い扉も、何ひとつ変わっていない。変わったのは、自分のほうだった。
通された書斎で、父は窓辺に立っていた。
ロデリック理事。金の徽章。評議会の重い席。四十年、組合の秩序の真ん中を歩いてきた男。その背を、セレネは扉口から見た。昔より少し小さく見えた。肩のあたりに、四十年ぶんの重みが乗っているようだった。窓の外には、夕暮れの天秤の像が立っていた。傾いた日が、二つの皿を赤く照らしていた。
「……ただいま戻りました、お父さま」
父は振り返った。娘の顔をしばらく見て、それから小さくうなずいた。何か言いかけて、やめた。その間が、半年という時の長さを物語っていた。
「ずいぶん、遠いところで暮らしているそうだな」
「グラナです。良い街です」
言ってから、セレネは少しだけ胸を張りたい気持ちになった。良い街。半年前の自分なら、田舎の小さなギルドとしか思わなかった場所。今は迷わずそう言える。
父は答えなかった。茶を一つ、勧めただけだった。二人は古い卓を挟んで向かい合った。半年ぶりの親子の間に、すぐには言葉が落ちてこなかった。卓の木目も、壁の古い帳面も、何も変わっていない。ただ向かい合う娘の目だけが、出ていったときと違っていた。父はたぶん、それに気づいていた。
先に口を開いたのは、父だった。
「昨日の検めを見た」
「はい」
「あの目利きの男。──本物だな」
セレネは父の顔を見た。そこにあったのは怒りでも嘲りでもなかった。もっと静かな、けれど深いところで揺れている色だった。四十年守ってきたものが、一度たしかにきしんだ。その音を、誰より重く聞いた人の顔だった。守旧の頭であるレーヴェなら、その音を聞かなかったことにできる。けれど父にはできない。それがこの人の弱さであり、たぶん、いちばんの強さだった。
「お父さまは、あの目を罰しようとお考えですか」
「……わからん」
父は正直に言った。
「徽章とは何か。わしは四十年、それを問わずに守ってきた。徽章は組合の保証だ。何百年も積み上げた信用の連なりだ。その連なりに、徽章を持たぬ目を一つ通せば。──組合の根が、ほどけていくのではないか」
「レーヴェさまも、同じことをおっしゃるのでしょうね」
父の眉が、わずかに動いた。図星だったのだろう。セレネは静かに続けた。
「昨日わたしは紅玉の等級を読みました。あの方が瑕疵を視て、わたしが等級を裏づけた。徽章とあの目は、争っていません。役目が違うだけです。──組合の根をほどくのは、あの目ではありません。視えているものを視えないことにする。そのほうが、よほど根を腐らせます」
父は黙っていた。
セレネは膝の上で手を握った。半年前の自分なら、こんなふうには言えなかった。徽章を吊るした令嬢として、徽章なき目利きを見下していた。鑑定士組合の銀。それが自分の値打ちのすべてだと思っていた。それがグラナで、ひとつずつ崩れた。死んだ種もみを前に「わたしの目では分からない」と言った日。あの悔しさが、今の自分を作っている。今は分かる。徽章は、生まれや格式の証ではない。確かな品を、確かだと言うためにある。そのために徽章があるなら、確かな目を締め出す徽章は、もう徽章の役目を忘れている。
◇
卓の上に、セレネはそっと小さな包みを置いた。
布を開く。中から、古い銀細工の腕輪が出てきた。父の顔色が、変わった。
「……それは」
「お母さまの形見です。お父さまが二十年、肌身離さず持っていらした」
父はゆっくりと腕輪を手に取った。冷たい銀。見慣れた細工。けれど娘がなぜこれを、という戸惑いが、その手の動きに表れていた。
「半年前グラナで、あの方がこれを視ました」
セレネは静かに言った。
「留め金の内側に、目に見えないヒビが育っている、と。このままでは、そう遠くないうちに折れる。直すなら今のうちだ、と。──組合じゅうの誰の目にも視えませんでした。わたしの徽章でも、視えなかった。あの方だけが視たのです」
父は腕輪を見つめたまま、動かなかった。
「ずっと、お伝えできずにいました。あの目を、組合が罰しようとしている。その目が、お母さまの形見が壊れる前に、それを教えてくれた。──皮肉で、言い出せなかった。けれど昨日の検めを見て、思いました。これ以上、隠してはいけない、と」
父は留め金のあたりを、指でなぞった。
長いあいだ、そうしていた。やがて低い声がこぼれた。
「……二十年、毎日この手で触れてきた。それでも、わしには視えなんだ」
「はい」
「視える者が、現にいる。それを、徽章を持たぬというだけで」
父は言葉を切った。窓の外の天秤の像を、長く見つめた。
セレネは父を急がせなかった。母に似てきた、と父は前に言った。気の強い、まっすぐな人だったと。曲がったことを何より嫌った人だと。その母なら、この場で何と言うだろう。たぶん、まわりくどいことは言わない。
「お父さま」
セレネは、まっすぐに父を見た。
「わたしは、組合を捨てません。徽章を捨てるつもりもありません。──だからこそ、内側から変えたいのです。組合を壊すのではなく、直すために。視える者を罰する組合ではなく、視える者と手を組める組合に。それができるのは、徽章を持つ者だけです。わたしや、テオさまのような」
父は娘を見た。
その目に、迷いがあった。けれどそれは昨日の広間で見せた揺れとは、少し違うものだった。揺れて、流される迷いではない。揺れたあとで、どこに立つかを探す迷い。セレネは、その違いを見て取った。
「考えさせてくれ」
父は静かに言った。
「ひとつだけ言える。──昨日わしの四十年は、一度たしかに揺れた。それは悪いことではないのかもしれん」
セレネは、深く頭を下げた。
腕輪は、父の手のなかにあった。父はそれを、もう布に包み直そうとはしなかった。留め金をそっと指で押さえたまま、いつまでも窓の外の天秤を見ていた。
帰り際、セレネは一度だけ振り返った。父はまだ腕輪を手にしていた。窓辺の老いた背に、夕日が長い影を引いていた。あの背が三日後、どちらの皿に重みを置くのか。娘の言葉が届いたのか、それとも長老の重みに戻ってしまうのか。それはまだ分からなかった。
ただひとつ、確かなことがあった。今日、自分は逃げずに言うべきを言った。母なら、そうしただろうから。
決の日は、三日後だった。その天秤がどちらへ傾くか、まだ誰にも分からなかった。
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