第126話 票の数
検めの夜、丘の上の本部はいつもより静かだった。
オットー・レーヴェは自室の窓辺に立っていた。月の光が、白い長衣を青く染めていた。手のなかには、一枚の古い紙片。評議会の席次が、上から順に書き込まれている。何十年も前から、彼が折にふれて開いてきた紙だった。
レーヴェはその名の一つ一つを目でなぞった。
昼間の広間のざわめきは、もう胸のうちで静まっていた。徽章なき目利きが、五百年外に出ていない剣の来歴を読み、査定長の見立てを偽物と暴いた。見事だった。それは認める。けれど見事さと決とは別の話だ。レーヴェの戦いは、品の上では行われない。この紙片の上で行われる。
「……老いた徽章ほど、わしに従う」
彼は低くつぶやいた。
古い金、古い銀。長く組合に仕えた者ほど、徽章の秩序を我が身として生きてきた。徽章なき者に印を許すというのは、彼らにとっては自分の四十年を否定されることに等しい。だから票は固い。数えるまでもなく、こちらへ転がる。
若い徽章は違う。テオ・ハルクのような銅、それに連なる銀の幾人か。徽章だけでは読めぬものがあると、昼間の検めで思い知らされた者たち。彼らはあちらへ流れる。それも数えるまでもない。
昔は、こんな若い芽など、生えるそばから摘めばよかった。徽章を吊るすのは組合だ。誰を上げ、誰を据え置くかは、長老の胸ひとつにある。意に染まぬ若い徽章は、いつまでも下の格に留め置けばいい。声の小さい者は、いずれ黙る。レーヴェは長くそうやって、組合の水面を波立たせずにきた。
けれど今度ばかりは勝手が違った。波を立てたのは、組合の外の男だった。徽章を持たぬぶん、組合の手綱が届かない。摘もうにも、枝が組合の塀の外にある。だからこそ、評議会の票という、組合の内側の力で決着をつけねばならなかった。
問題は、その真ん中だった。
◇
紙片の中ほどに、一つの名があった。
ロデリック理事。金の徽章。評議会の重い席。守旧でも改革でもなく、四十年、まっすぐ秩序の真ん中を歩いてきた男。古い徽章はその背を見て育ち、若い徽章はその公正さを信じている。だからこそ、その一票は重い。
レーヴェは知っていた。票はほぼ二分されている。固い守旧と、増えてきた改革。差はわずか数票。ロデリック一人が動けば、その数票は容易にひっくり返る。
つまりこの男さえ抑えれば、決は揺るがない。
レーヴェは紙片を畳んだ。窓の外、丘のふもとに、客人の泊まる宿の灯が小さく見えた。あの娘も、あそこにいるのだろう。半年ぶりに父の城へ戻ってきた、銀の徽章の娘が。
「……セレネ・ロデリック」
名を口にして、レーヴェはわずかに目を細めた。あれは良い徽章だ。昼間、紅玉の等級を読み、徽章なき目利きの言葉をきれいに継いでみせた。父譲りの、まっすぐな目をしている。
それが、ロデリックのいちばん柔らかいところだった。
◇
翌朝、レーヴェはロデリックを自室へ招いた。
茶を一つ、勧めた。窓の外には天秤の像。二人の老いた金の徽章が、湯気のたつ杯を挟んで向かい合った。
「昨日の検め、見事だったな」
レーヴェは静かに切り出した。
「あの男の目は、本物だ。それは認める。──だがロデリック。本物であるほど、危うい。半端な偽者なら、いずれ自滅して消える。本物は、消えぬ。組合の秩序の真ん中に、徽章を持たぬ目が居座る。それがどういうことか、お前ならわかるはずだ」
「……秩序は、目利きのためにあるのではありませんか」
ロデリックは低く返した。
「目利きのためにある秩序が、確かな目利きを締め出す。それは、本末が逆では」
レーヴェは薄く笑った。
「四十年前、お前が銀の徽章を吊るした日のことを覚えているか。あのとき組合はお前の腕でなく、お前が秩序を守ると誓ったことを認めた。徽章とは、そういうものだ。一人の目の確かさではない。何百年も積み上げた保証の連なりだ。──その連なりに、たった一つ穴を開ければ。あとはほどけていくだけだ」
ロデリックは黙っていた。
レーヴェは湯気の向こうからその顔を見た。揺れている。四十年、まっすぐだった男が、昨日の広間で一度揺らいだ。その揺れを、こちらへ引き戻せばいい。
ロデリックは杯に目を落としたまま動かなかった。
レーヴェはその沈黙を急がなかった。長く生きた者の沈黙には、必ず迷いが混じる。迷いは押せば固まり、待てばこちらへ流れてくる。彼はもう一口、茶をすすった。窓の外の天秤の像を、ゆっくりと眺めた。
「わしはな、ロデリック。あの男を憎んではおらぬ」
しばらくして、レーヴェは静かに言った。
「むしろ惜しいとさえ思う。あれだけの目を、組合の外に咲かせておくのは。──だが惜しさで秩序を曲げれば、わしの四十年も、お前の四十年も、根のないものになる。情で一度ゆるめた決まりは、二度と元には締まらぬ。それを、わしはこの目で何度も見てきた」
声に、力みはなかった。ただ長い年月の重みだけが、その低い声に乗っていた。
「お前の娘は、良い徽章だ」
レーヴェは声を一段やわらげた。
「セレネといったか。あの娘の前には、長い道がある。いずれ金を吊るし、この評議の席に座るやもしれぬ。──だがそれは、組合の秩序があってこそだ。秩序の崩れた組合に、徽章の重みなど残らぬ。娘が継ぐべきものを、父が壊す。そんな決を、お前は下せるか」
杯の湯気が、細く揺れた。
ロデリックは長いあいだ何も言わなかった。それからゆっくりと茶を置いた。立ち上がる所作は来たときよりも重く見えた。
「……考えさせてください」
「ああ。ゆっくり考えるといい」
レーヴェは穏やかに見送った。扉が閉まると、窓辺へ戻り、また紙片を開いた。ロデリックの名の上に、そっと指を置く。
声を荒らげる必要はない。脅す必要もない。ただその男のいちばん大事なものを、そっと秤に載せてやればいい。秩序。四十年。娘の行く末。重みを並べれば、まっすぐな男ほど、まっすぐにこちらへ傾く。
窓の外で、天秤の像が朝日を浴びていた。
二つの皿はまだつり合っている。けれどレーヴェには、その片方が、ほんのわずかに沈み始めたのが見える気がした。決の日は、三日後だった。
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