第117話 強い人
ヴィオラが通ってくるようになって、ギルドの空気が少し変わった。
あの人が戸口をくぐると、それだけで場の温度が一段上がる気がした。背筋がまっすぐで声に張りがある。供を連れずに来るときでも誰かが三人ぶんの場所を空けてしまう。連合いちと言われた商人とは、こういうものなのだろう。俺は地の文を読むみたいに、ただそう思っていた。
その日もヴィオラは早くから机に着いていた。
育てる目利きの話を詰めるためだった。どの品目から始めるか。誰を最初の一人にするか。卓には連合の地図と、品ごとの覚え書きが広げられていた。俺とミレイユとセレネ、それにヴィオラ。四人で頭を寄せていた。
「干し肉と革帯から、でしょうね」
ヴィオラが指で覚え書きをたどった。
「外れが多くて、見分けの勘どころがはっきりしている品。覚える者にも教えやすい。塩や薬は奥が深すぎて、最初の一人には荷が重い。──レイ殿、どう思われます」
「いいと思います」
俺はうなずいた。
「干し肉は内側の傷み、革帯はなめしの甘さ。どこを見るかが、はっきりしてます。最初に教えるなら、ちょうどいい」
「決まりですね」
ヴィオラが薄く笑った。話の早い人だった。こちらの言葉を半分まで聞けば、残りを正しく拾う。商いの卓で長く生きてきた人の、頭の回り方だった。
その様子を、フィオナがじっと見ていた。
◇
昼が過ぎて、ヴィオラがいったん宿へ戻った。
戸が閉まると、フィオナが大きく息を吐いた。剣の柄に手を置いて、椅子の背にもたれかかる。何か言いたげな顔だった。
「あの人さ」
「ヴィオラさんが、どうした」
「いや。……すごいよな。背がしゃんとしてて、頭も回って、しゃべりも上手い。あんなふうに、机でぴしっと話せる女の人、初めて見た」
フィオナは天井を見上げて言った。
「あたしなんか、剣を振ることしか能がない。卓に着いても、何を言えばいいのか分からなくてさ。話がぜんぶ、頭の上を通り過ぎてく。──ちょっとだけ、悔しい」
「フィオナは剣を振れる」
俺は言った。
「坑道で百足の継ぎ目を教えたとき、迷わず斬っただろ。あれはヴィオラさんにはできない。卓で品を語る人と、現場で剣を振る人。どっちが上って話じゃない。役割が違うだけだ」
フィオナが、ぽかんとした顔をした。
「……お前、たまにそういうこと、さらっと言うよな」
「そうか」
「そうだよ」
フィオナは少し赤くなって、そっぽを向いた。それから小さく笑った。悔しさの色は、もう薄れていた。
◇
セレネは別のところを見ていた。
「フィオナは分かりやすいわね」
書き物の手を止めずに、セレネが言った。
「強い人を見て、まっすぐ悔しがる。それでレイに一言かけられて立ち直る。──うらやましいくらい、まっすぐ」
「セレネは悔しくないのか」
「悔しいわよ」
セレネは筆を置いた。
「ヴィオラさんを見ていると、自分の足りないところが、よく見える。わたしは徽章を持っているけれどあの人みたいに連合じゅうを動かす度胸はない。父の顔色を、いまだに気にしている。──強い人を見ると、自分の弱さが、はっきり分かるの」
それはフィオナとは違う悔しさだった。表に出さず、内側で噛みしめる種類のものだった。
「セレネは種もみの村のとき」
俺は思い出して言った。
「自分の目では分からないって、はっきり言った。あれは弱さじゃないと思う。分からないことを分からないと言えるのは、強い人だけだ。組合の偉い人は、たいてい、それが言えない」
セレネが少し目を見開いた。
「……あなたって、ほんとに」
「俺が、どうかしたか」
「いいえ。なんでもない」
セレネは筆を取り直した。けれど耳のあたりが、ほんのり赤かった。書き物の文字が、さっきより少しだけ、丸くなっていた。
◇
夕方ミレイユが二人の様子を見て、小さく笑った。
俺には何がおかしいのか分からなかった。
「ミレイユさんも、ヴィオラさんを見て、何か思いますか」
「思うわよ」
ミレイユは帳面を閉じて言った。
「あの人は強い。商いの腕も、度胸も、わたしより上かもしれない。──でもね、わたしはもう誰かと比べて落ち込む歳じゃないの。あの人にできて、わたしにできないことがある。わたしにできて、あの人にできないこともある。それでいい」
「ミレイユさんにできて、ヴィオラさんにできないこと」
「あなたを、ちゃんと守れること」
ミレイユはさらりと言った。
「あの人はあなたの目を欲しがった。最初は、横取りでね。今は教えを請うている。──でもあなたという人を、いちばん近くで見てきたのは、わたし。それだけは、誰にも譲らない」
俺はなんと返せばいいのか分からなかった。
ミレイユの言葉は、いつも俺の見えないところに届いている。品なら、どこを見ればいいか分かる。けれど人の心は、いつまでたっても視えない。ミレイユがどういうつもりで、そう言ったのか。俺には、最後のところが読めなかった。
「……ありがとう、ございます」
「変な顔」
ミレイユが笑った。
フィオナが「何の話?」と首を突っ込んできて、セレネが「聞かなくていいの」とそれを止めた。三人のやりとりは、いつもの調子に戻っていた。強い人が現れても、ここの居心地は、変わらなかった。
◇
その夜、俺は一人で卓を片づけながら、昼間のことを思い返していた。
ヴィオラは強い人だった。それは間違いない。けれど強い人が来たからといって、フィオナの剣が鈍るわけでもセレネの目が曇るわけでもなかった。みんな、それぞれの場所で、それぞれの強さを持っていた。比べて減るものではなかった。
追放されたばかりの頃、俺は自分のことを、何の取り柄もない検品係だと思っていた。
今は少し違って見える。取り柄がないのではなく、ただ自分の強さに気づいていなかっただけだ。フィオナも、セレネも、たぶん、そうなのだろう。強い人を見て悔しがるのは、自分の中にも、まだ伸ばせる場所があると、どこかで知っているからだ。
戸の外で、見回りのバッソの足音がした。
いつもの夜だった。けれど卓の上には、連合の地図が広げたままになっていた。明日から、その地図の上に、新しい目を一つずつ立てていく。俺の目を核にした、まだ誰も見たことのない仕組み。それが、うまくいくのかどうか。
俺はランプを消す前に、もう一度、地図を見た。
遠いメルダートの白い建物が、その地図のいちばん端に、小さく描かれていた。
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