第116話 全数の壁
数日して、ヴィオラがまた机に着いた。
今度は帳面を広げての話だった。
卓には連合の地図が広げられていた。ヴィオラの指が街から街へと線を引いていく。隊商の通る道だ。連合いちと言われた足が、その線の一本一本に詰まっていた。北の港から南の谷まで、彼女の隊商は連合のすみずみを結んでいた。
「これがわたくしの足です」
ヴィオラは言った。
「連合じゅう、どこへでも荷を運べる。早く、安く。──これだけの足を、わたくしは持っている。けれど確かさを運ぶ目が、一つもない。あったのは抜き取りの徽章だけ。それがこの冬で砕けました」
「俺の目は一つしかありません」
俺は地図を見ながら言った。
「グラナの戸口で一日に視られる品の数は、たかが知れてます。この地図ぜんぶの荷を、俺一人が視るのは、無理です。北の港の荷を視ているあいだに、南の谷の荷が外れたまま運ばれていく。──足と目の、数が合いません」
それが壁だった。
ヴィオラの足は連合をまたぐ。俺の目はグラナの戸口で止まる。確かさを連合じゅうに届けるには、俺の目が連合じゅうに要る。けれど俺は一人だ。どこをどう詰めても、一人の目で連合は覆えない。安く早くと確かさが両立しないのと、同じ壁だった。
卓に沈黙が落ちた。
◇
その沈黙を破ったのは、セレネだった。
「目を増やせばいいのでは」
皆がセレネを見た。
「レイの目は一つきり。それは変えられない。でも──レイのやり方なら、人に教えられる。革のなめしの甘さ。樽の底の薄さ。麦の混ぜ物。そういう見分け方を、レイは言葉にできる。徽章みたいに生まれつきの力じゃなくて、覚えれば誰でも近づける、見方がある」
俺ははっとした。
言われてみれば、そうだった。来歴を視るのは俺にしかできない。けれど第一の見分け――革の芯、樽の底、麦の粒。あれは力ではなかった。視る順番とどこを見るかの話だった。現に俺はガロに鉄の見方を教えてきた。ドニに塩の見方を教えてきた。一から十まで俺と同じには視られなくても、外れの七割は、教われば防げる。
「俺の目は一つです」
俺はゆっくりと言った。
「でも見方は一つじゃない。教えれば、何人もが、近いところまで視られるようになる。全部は無理でもひどい外れははじける。──そういう目利きを、連合の各地に育てれば」
「足の先に目が立つ」
ヴィオラが身を乗り出した。
「わたくしの隊商の行く先々に、確かさを見分ける者がいれば。一人がぜんぶを視なくても、それぞれの土地で、それぞれが視る。レイ殿がその見方の芯を授ける。──そういう仕組みなら、足と目の数が、合う」
地図の上で線と点がつながった気がした。
俺はガロのことを思い出した。
あいつはもとから鉄の目を持っていたわけではない。俺が芯の割れの見方を教え、何度も一緒に鎚を振るううちに、少しずつ視られるようになった。今では、俺の視ない場でも、ひどい外れははじける。ドニも同じだ。塩の混ぜ物を、もう自分で見分ける。力ではなく、見方を覚えたからだった。
覚えれば、近づける。
俺と同じには、視られない。来歴までは、誰にも視えない。けれど外れの七割は、見方さえ知れば防げる。残りの三割を、俺やセレネが裏で支えればいい。一人で十を抱えるのではなく、皆で十を分ける。そういう形なら、連合の広さにも、いつか手が届くかもしれなかった。
◇
「ただし」
ミレイユが、横から釘を刺した。
「育てた目利きが、いいかげんな見方をすれば、それは『グラナ仕込み』の名で外れを出すことになる。ダンスク保証の二の舞よ。教えるなら、本当に外れを見分けられる者だけ。数を急いで、見せかけの目利きを増やせば、信用ごと砕ける」
「その通りです」
俺はうなずいた。
「急いで増やすのは、危ない。一人前に視られるまで、時がかかる。徽章みたいに、試して印を渡せばいいって話じゃない。──ちゃんと外れを見分けられるか、一人ずつ確かめてからでないと。数より、確かさが先です」
ヴィオラはしばらく考えていた。
「時がかかる。数は急げない。──商いとしては、じれったい話です」
それからふっと笑った。
「けれど速さで急いで砕けたのが、この冬のわたくしです。じれったいくらいで、ちょうどいいのかもしれません。確かさは、急いでは育たない。あなたがたを見ていると、それがよく分かる」
俺は少し驚いた。
連合いちの大商人が、じれったさを受け入れた。速さこそが武器だと思っていた人が、確かさのために時を待つと言った。会頭には、できなかったことだった。たぶん、つい先ごろのヴィオラにも、できなかったことだった。
◇
「まずは、小さく始めましょう」
ミレイユが、話をまとめた。
「品目を、一つか二つに絞る。土地も、まずは近場だけ。レイが見方を授けて、本当に外れを見分けられる者を、一人か二人だけ育てる。──それで、うまくいくかどうかを、見る。いきなり連合じゅうは、やらない」
「結構です」
ヴィオラは深くうなずいた。
「小さく、確かに。それで連合の一部だけでも、ダンスクとグラナの品が、また信じてもらえるようになれば。──それが、わたくしの償いの、第一歩になります」
話が、まとまった。
ヴィオラが帰ったあと、俺はひとり、卓に広げたままの地図を眺めていた。
俺の目は一つきりだ。それは変わらない。けれど見方を授ければ、目は増やせる。一人の力ではなく、皆で外れをはじく仕組み。それは、俺が追放された頃には、考えもしなかった眺めだった。
「妙な話だな」
俺はひとりごちた。
追放されたときの俺はただの検品係だった。良いものを良いと言うだけの男。それが今は、その見方を人に授ける側に回っている。視るだけだった俺が、視る人を育てる。何も変わっていないつもりで、ずいぶん遠いところまで来ていた。
セレネが、戸口から声をかけてきた。
「育てる目利き、か。──それ、組合がいちばん嫌がる話よ。徽章を持たない目利きが、各地で増えていくなんて」
俺は地図から顔を上げた。
「組合が、嫌がりますか」
「ええ。とても」
セレネは静かに笑った。困ったような、けれどどこか楽しげな笑い方だった。
遠いメルダートの白い建物で、静かに駒を並べる者の影が、また少しだけ、こちらを向いた気がした。
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