第115話 もう一度、あの机へ
雪がグラナの屋根を白くし始めた頃だった。
ヴィオラ・ダンスクが、もう一度ギルドの戸を叩いた。
前に来たときとは、まるで違う姿だった。供を連れず、地味な外套をまとい、一人で来た。連合いちの大商人を思わせる華やかさは、どこにもなかった。商会を砕いたあとの、静かな顔だった。
ミレイユはその姿を見て眉をひそめた。
「また、横取りの話なら、お引き取りを」
帳場から立って、ミレイユははっきりと言った。
「うちは誰の保証にもなりません。レイが視たから確かなのであって、お宅の名がつけば、それはお宅の保証。──同じ話なら、何度来ても同じ答えです」
「横取りの話ではありません」
ヴィオラは静かに答えた。
そして卓の前まで進むと、深く頭を下げた。
連合いちの大商人が、グラナの古い卓に頭を下げた。それは誰も見たことのない眺めだった。フィオナが剣の柄から手を離すのも忘れて目を見張った。セレネが息をのんだ。
「教えてほしいのです」
ヴィオラは頭を下げたまま言った。
「あなたのやり方を。一つずつ視るというのが、どういうことか。徽章では足りないと、わたくしはこの冬で思い知りました。商会は砕け、信用は失せ、三つの街を冬に放り出した。──全部、わたくしのしくじりです。それを認めに来ました」
俺はなんと答えればいいのか迷った。
目の前の女はつい先ごろまで連合を席巻していた大商人だ。そのプライドを自分から折って頭を下げている。仕返しに来たわけでも、取り入りに来たわけでもない。ただ教えを請いに来ていた。
◇
「頭を、上げてください」
俺はそう言った。
「俺のやり方なんて、たいしたものじゃありません。良いものを良いと言う。外れを外れと言う。それだけです。一つずつ視るのも、ずるをしないってだけのことで。──頭を下げられるようなことは、何も」
「その『それだけ』が、できなかったのです」
ヴィオラは顔を上げた。
その目には、横取りに来たときのような余裕の光はなかった。けれど卑屈さもなかった。しくじりを認めた者の、まっすぐな目だった。
「わたくしは、速さを売りました。安く早く焼き印を散らせば、連合じゅうが飛びつくと思った。事実、飛びつきました。けれど速さは外れを散らす速さでもあった。──あなたは、それを最初から知っていた。だからわたくしの足を断った。違いますか」
「断ったのは、ミレイユさんですけど」
「同じことです」
ヴィオラはかすかに笑った。
「あなたがたは、確かさを速さで売り渡さなかった。わたくしは売り渡した。その違いが、この冬の差になった。──だから教えてほしい。確かさを、どうやって人に届けるのか。あなたのやり方を、わたくしは知りたい」
俺はフィオナを見た。それからセレネを見た。最後にミレイユを見た。
ミレイユは腕を組んで考え込んでいた。
◇
「教えるのは、構いません」
しばらくして、ミレイユが口を開いた。
「ただし、ただではありません」
商人の顔に戻っていた。警戒は解いていない。けれど頭ごなしに拒みもしない。ミレイユはヴィオラを値踏みするように見た。
「レイのやり方は、うちの命綱です。それをそっくり教えれば、お宅はまた連合に出ていく。今度は確かなやり方で。──そうなれば、うちの客を、本当に持っていかれるかもしれない。ただで渡すほど、うちはお人好しじゃありません」
「では、何を払えと」
「答える前に、一つ聞かせて」
ミレイユはまっすぐにヴィオラを見た。
「お宅は、なぜここまでする。連合いちの商人が、頭を下げてまで。──プライドを折るくらいなら、商売替えしたほうが楽でしょう。なぜ、確かさにこだわるの」
ヴィオラはしばらく黙った。
それからぽつりと言った。
「三つの街の子どもが、屋根のたわんだ家で震えていました。わたくしの焼き印のせいで。──あれを見て、思ったのです。速さで稼いだ銀は、あの子らの冬を一つも温めなかった、と。確かさは、銭になりにくい。けれど人を凍えさせない。わたくしは、凍えさせるほうの商人で、いたくない」
帳場が、静かになった。
その言葉に嘘の匂いはなかった。連合いちまで上りつめた女が、子どもの冬を口にした。儲けでも面目でもなく、凍える者の話をした。横取りに来たときの、得を並べる舌とは別の声だった。商いの先に人がいると、この女はようやく見たのかもしれない。
フィオナが、ふっと息を吐いた。セレネが、目を伏せた。俺はその言葉を信じていいのか、まだ分からなかった。けれど嘘を言っている顔には見えなかった。
「会頭とは、違うわね」
ミレイユが、ぽつりと言った。
「あの人は、最後まで損にしか目が向かなかった。お宅は、損の先にいる人を見た。──それだけは、認める」
◇
「条件は、追って詰めます」
ミレイユはそう言って話を切った。
「教えるのは、やり方の芯だけ。うちの客を奪わない取り決めも、文に残してもらう。それと──」
ミレイユはちらりと俺を見た。
「レイの目を、お宅の保証の看板にはさせない。教えるのは、確かさの届け方。レイの名は、グラナのもの。そこを違えたら、すぐに手を引きます」
「結構です」
ヴィオラは深くうなずいた。
「あなたがたの目を、わたくしのものにする気は、もうありません。借りたいのは、目ではなく、考え方です。──それなら、奪ったことにはならないでしょう」
話はひとまずそこで止まった。
ヴィオラは宿を取って、また来ると言って帰っていった。雪の中を、供も連れずに、一人で。
戸が閉まると、フィオナが大きく息を吐いた。
「信じていいの、あの女」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「人の心は、視えませんから。腹のなかが、ほんとはどうなのか、俺には分かりません。──でも、子どもの冬の話をしたときの目は、嘘には見えなかった。それだけです」
セレネが、静かに言った。
「会頭は損に気づかなかった。あの人は、損の理由まで気づいて、頭を下げに来た。──いちばん厄介な相手が、いちばん頼もしい味方になるかもしれない。そういう、嫌な予感がするわ。良いほうの予感だけど」
雪は、夜まで降り続いた。
あの机に、もう一度ヴィオラが座る日が来るのを、俺は静かに待つことになった。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




