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第112話 ヴィオラの計算

 連合の南。ダンスク商会の本店の奥。


 ヴィオラ・ダンスクは、三日のあいだ卓を離れなかった。


 卓の上には返品の控えが積まれていた。革。油。樽。木材。屋根板。どれもダンスク保証の焼き印つきだ。徽章持ちが検めて最上等と読んだ品ばかりが、外れて戻ってくる。山は日に日に高くなった。


 ふつうの商人なら、ここで目をそらした。


 外れはどんな商いにもある。運が悪かった。客が騒ぎすぎだ。そう片づけて帳面を閉じれば、夜はよく眠れる。会頭はそうやって最後まで自分の損に気づかなかった。ヴィオラはその話を、人づてに聞いて知っていた。


 だが彼女は帳面を閉じなかった。


「なぜ、外れる」


 その問いだけを、彼女は手放さなかった。


 返品の革を一枚、手に取った。なめしの甘い革だった。表は艶やかで、上等に見える。徽章持ちが最上等と読んだのも分かる。けれど指で曲げると、芯のあたりに固さがあった。脂が回りきっていない。雨を吸えば裂ける。


 ヴィオラは革を見つめた。


 表は良い。芯が悪い。その二つが別ものだということに、彼女は初めて気づいた。徽章は表を読む。芯は読まない。読まないというより、抜き取りでは読みようがない。百枚のうち三枚を視て、残りを通す。通したぶんに、芯の悪いものが紛れる。


 ヴィオラは、自分の商いを思い返した。


 ここまでの成り上がりに、迷いはなかった。安く仕入れ、早く運び、確かに売りさばく。三つの拍子で連合を渡ってきた。誰よりも足が速かった。誰よりも肝が太かった。だからこそ、商会の抜けた椅子に真っ先に手を伸ばせた。その自負が、いま音を立てて崩れかけていた。


 速さは、彼女の誇りだった。


 その誇りが、外れを連合じゅうに撒いていた。返品の山は、彼女の足の速さそのものだった。早く運べたぶん、外れも早く広がった。誇りの裏側が、こんな形をしているとは思わなかった。彼女は革を卓に戻し、こめかみを押さえた。


  ◇


 そこへ、グラナからの返事が届いた。


 彼女が出した文への返事だった。組まないかとは言わない。ただ一つ教えてほしい。徽章持ちが検めた品が、なぜ外れるのか。彼女はその一行だけを書いて送っていた。


 使いが差し出した文を、ヴィオラは自分で開いた。


 短い文だった。飾りのない字が並んでいた。


『抜き取りでは芯が読めません。表の等級と、芯の良し悪しは別のものです。全部を一つずつ視れば外れははじけます。けれど一つずつ視るには、人の手と暇がいります。安く早くとは、両立しません』


 それだけだった。


 売り込みもない。条件もない。恩を着せる言葉もない。問われたことに、ただまっすぐ答えてあった。会頭なら、ここぞとばかりに取り入ろうとしただろう。あの男は違った。教えを請われて、教えだけを返してきた。


 ヴィオラはその文を二度読んだ。


 安く早くとは両立しない。その一行が、胸に刺さった。彼女のダンスク保証は、まさに安く早くを売りにしていた。徽章持ちを大勢雇い、抜き取りで素早く焼き印を押し、連合じゅうに散らす。速さこそが武器だった。


 その速さが、外れを連合じゅうに散らしていた。


 届く速さと同じ速さで、ほころびも運ばれていた。彼女が誇った仕組みそのものが、外れを生む仕組みだった。芯を読まずに通すから、速い。芯を読めば、遅くなる。速さと確かさは、てんびんの両端だった。


 ヴィオラは文を卓に置いた。


 あの男が連合いちの足を断った理由が、ようやく腑に落ちた。レイは知っていたのだ。自分の目で全部を視られない取引には、自分の名を貸さない。抜き取りでは芯が漏れる。漏れた芯が、いつか誰かの手で外れになる。だから断った。誇りでも気取りでもない。仕組みの話だった。


 彼女は天井を見上げた。


「全部を、一つずつ……」


 つぶやいて、すぐに首を振った。


 無理だ、と頭の冷たい部分が言った。連合じゅうの品を一人で全部視るなど、できるはずがない。レイの目はグラナの戸口でしか回らない。一日に視られる品の数など、たかが知れている。彼女の足は連合をまたぐ。その足に、一人の目はとても追いつかない。


 速さを捨てれば、ダンスク保証は立ち行かない。


 確かさを取れば、安くも早くもなくなる。どちらかしか選べない。そう思えた。


  ◇


 その夜、ヴィオラは大口の話を抱えていた。


 連合の東、三つの街をまたぐ大きな取引だった。建材と油と樽を、ひと冬ぶんまとめて納める。銀貨にして数千枚。ダンスク保証の名で請けた、これまでで最も大きな仕事だった。


 すでに荷は動き出していた。徽章持ちが抜き取りで検め、焼き印を押し、隊商が運び始めていた。今さら止められなかった。止めれば違約の銀が飛ぶ。商会の屋台骨が傾く。


 ヴィオラは唇をかんだ。


 請けたときは、会心の取引だと思った。連合で一番大きな仕事。これを無事に納めれば、ダンスク保証の名は不動になる。そう信じて、いつもの拍子で動いた。徽章持ちを並べ、抜き取りで検め、隊商を仕立てた。速く、安く、いつも通りに。


 いつも通りが、いまは恐ろしかった。


 返品の山を見ているのに、止められない。芯が漏れていると分かっているのに、速さの仕組みは動き続ける。一度回り始めた車輪は、自分の重さで転がっていく。彼女が止めようとしても、もう遅かった。


「外れていなければ、いい」


 彼女は祈るように言った。


 けれどそれが祈りでしかないことを、彼女自身が一番よく知っていた。抜き取りで通したぶんに、芯の悪いものが紛れている。数千枚ぶんの荷のどこかに、外れが眠っている。それがいつ表に出るかは、運でしかなかった。


 ヴィオラは窓辺に立った。


 外では秋が深まっていた。連合じゅうに散らした焼き印が、今この瞬間にも遠い街で外れを生んでいるかもしれない。彼女はその想像を、初めて正面から見据えた。目をそらさなかった。


 目をそらさないことが、会頭との違いだった。


 けれど目をそらさないだけでは、外れは止まらない。気づくことと、直せることは、別だった。レイの文の通りだ。安く早くと、確かさは両立しない。彼女はその壁を、ようやく自分の手で触っていた。


 大口の荷は、東へ運ばれていく。


 その荷のどこかで何かが裂ける日を、ヴィオラは静かに待つしかなかった。

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