第110話 雨に裂けた革
秋の雨が、連合じゅうを濡らし始めた頃だった。
ダンスク保証のほころびが、一気に表に出た。
はじめは革だった。
保証つきの革で仕立てた外套が、ひと雨で裂けた。なめしが甘く、芯まで脂が回っていなかったのだ。雨を吸って、繊維がほどけた。連合の北の街で、何十着もの外套が同じようにダメになった。
次は油だった。
保証つきの灯し油が、灯すとすぐ消えた。水で薄めてあった。冬の支度に買い込んだ家々が、暗い夜を過ごすはめになった。
それから、樽。底の抜けた酒樽。芯の腐った木材。雨漏りのする屋根板。どれもダンスク保証の焼き印つきだった。徽章で言えば、最上等。けれど使えば、外れだった。
苦情は遠い街から順に届いた。
遠いほど、気づくのが遅れたからだ。荷馬車で何日もかけて運ばれ、売られ、使われ、そうして初めて外れと分かる。買った者が気づいた頃には、保証の店はもう遠い。文句を言いに行くにも、四日も五日もかかる。泣き寝入りする者も、多かった。
安くて早い。その触れ込みで広がったぶん、外れも遠くまで広がっていた。届く速さと同じ速さで、ほころびも連合の隅々へ運ばれていた。
◇
グラナのギルドにも、その噂は次々と入ってきた。
バッソが、隊商のたびに新しい話を持ち帰った。
「東の街じゃ、革屋がダンスクの保証品を突き返したとさ。西じゃ油屋が、客に詰め寄られて店を閉めた。──保証の焼き印が、いまや疫病神あつかいだ」
俺はそれを静かに聞いていた。
起きていることは、商会のときと同じだった。抜き取りでしか検められない。代表の何個かを視て、残りは通す。そして通した荷の底に、外れが紛れる。徽章は表の等級を読む。けれど芯までは読まない。なめしの甘さ。薄めた油。底の薄い樽。どれも、表からは分からなかった。
会頭の二の舞だった。
いや、会頭より広がりが速いぶん、たちが悪かった。会頭は一つの商会だった。ダンスク保証は、連合じゅうに焼き印を散らしていた。穴を埋めるはずの保証が、連合じゅうに穴を空けていた。
その日も、一人の革商人が裂けた外套を抱えて来た。
ダンスク保証の焼き印つきの品だった。俺はその革を視た。なめしの甘さは、表からは分からない。けれど芯まで脂が回っていなかった。水を吸えば、繊維がほどける。雨の一日で裂けたのも当然だった。
「徽章持ちが、ちゃんと検めたはずなんだ」
革商人は途方に暮れた声で言った。
「上等の印が押してあった。それを信じて仕入れた。なのに、この始末だ。──いったい、何を信じりゃいいんだ」
俺はその問いに答えられなかった。
徽章は、嘘をついていない。鑑定士は、本当に上等の革だと思って印を押した。表だけ見ればそれは正しかった。けれど芯が違った。表の良さと、芯の良さは、別ものだった。徽章は前者しか読まない。それだけのことが、連合じゅうを混乱させていた。
戻ってくる客が、また増えた。
「やっぱり、ここで視てもらわねえと安心できねえ」
そう言って、商人たちがグラナの戸を叩いた。階段を一段下りて、二段上る。客の揺れは、今度ははっきりとグラナへ傾き始めていた。
けれど俺の胸は、晴れなかった。
戻ってきた客のぶんだけ、戻ってこられなかった人がいる。遠い街で、裂けた外套に震える者。消えた灯のなかで冬を越す家。そういう人たちのことを思うと、客が増えたと喜ぶ気にはなれなかった。
ミレイユも、同じことを考えていたらしい。
「勝った気は、しないわね」
帳面から顔を上げて、ミレイユは言った。
「うちの客は増えた。でも、それは向こうがしくじったからよ。誰かが泣いたぶん、こっちに人が戻ってくる。──こんな勝ち方、ちっとも嬉しくない」
俺もうなずいた。
穴を埋めるはずの保証が、別の穴を空けた。その穴に落ちた人がいて、落ちなかった人がグラナへ来る。良いものを良いと視るだけでは、落ちた人を救えない。種もみの男と同じだった。間に合った者の陰に、間に合わなかった者がいる。
◇
同じ頃。連合の南、ダンスク商会の本店。
ヴィオラ・ダンスクは卓いっぱいに広げた帳面を睨んでいた。
数字がおかしかった。
保証品の売り上げは相変わらず伸びていた。けれどその裏で、返品の数がじわじわと増えていた。はじめは些細な揺れだと思った。どんな商いにも、外れはある。けれど返品の山は、月を追うごとに高くなっていった。
しかも外れ方に、妙な癖があった。
徽章持ちが検めて、最上等の印を押した品ばかりが、戻ってくる。等級は申し分ない。なのに使うと外れる。革は裂け、油は消え、樽は抜ける。表は良くて、芯が悪い。
「なぜ……」
ヴィオラはつぶやいた。
彼女は自分の雇った鑑定士を疑わなかった。みな本物の徽章持ちだ。腕も確かだ。嘘の印など押していない。それでも外れが出る。徽章が正しいのに、品が外れる。その矛盾が、ヴィオラには解けなかった。
会頭なら、ここで目をそらしただろう。
数字の不都合をたまたまだと片づけた。運が悪かった、客が騒ぎすぎだ、と。そうやって最後まで自分の損に気づかなかった。けれどヴィオラは違った。彼女は帳面から目をそらさなかった。
「なぜ、外れる」
彼女はその問いを手放さなかった。
徽章は等級を読む。それは知っていた。けれど等級が良いのに外れるなら、徽章が読んでいないものが、品のなかにあるということだ。芯。底。中身。表に出ない、どこか。
ヴィオラの指が帳面の一点で止まった。
グラナ。レイの目利き。
あの男は断った。連合いちの足を貸すと言ったのに、首を振った。なぜ断ったのか、あのときは分からなかった。けれど今、その理由が、うっすらと形を取り始めていた。
あの男は、知っていたのだ。
徽章では足りない、ということを。抜き取りでは、芯が読めない、ということを。だから断った。自分の目で全部を視られない取引には、自分の名を貸さない。──そういうことだったのではないか。
ヴィオラは帳面を閉じた。
窓の外で秋の雨が降り続いていた。彼女はしばらくその雨音を聞いていた。それから一人の使いを呼んだ。
「グラナへ、文を出す」
使いがけげんな顔をした。一度断られた相手だ。
けれどヴィオラの目には、さっきまでの迷いがなかった。何かをつかみかけた者の、静かな光があった。
「今度は、組まないかとは言わない。──ただ、一つ、教えてほしいことがある」
雨は、夜どおし降り続いた。
連合じゅうで保証の焼き印がほころんでいく。その音を聞きながら、ヴィオラ・ダンスクは、会頭が決して渡らなかった一線へ、足をかけようとしていた。
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