第109話 板挟みの銀
種もみの男が帰ってから、数日が過ぎた。
ダンスク保証の焼き印はまだ連合じゅうで幅を利かせていた。けれど外れに泣く声も、少しずつ増えていた。流れて、戻って、また流れる。客の揺れは続いていた。
そんなある日の夜だった。
セレネがギルドの卓に一通の文を広げていた。封蝋には、秤と麦穂の紋。組合の印だった。父からの文らしかった。
俺が近づくとセレネは文をそっと裏返した。読ませたくないのではなく、読ませるほどのことでもない、という手つきだった。
「父から?」
「ええ」
セレネは小さくうなずいた。
「メルダートの本部は、いま大変なの。商会が消えてできた穴を、組合がどう埋めるか。連合の品の信用を、誰が担うのか。──毎日、評議の間で言い争っているそうよ」
俺は黙ってその言葉を聞いていた。
組合のなかのことは、よく分からなかった。けれどセレネの口ぶりから、ただの言い争いではないことは伝わってきた。
「組合はね、二つに割れているの」
セレネは卓に指で線を引いた。
「片方はこう言う。商会が抜けたいまこそ、組合が信用の元締めになるべきだ、と。徽章の格を厳しくして、組合の印だけを正しいものにする。ほかの目利きは、みんな無効にする。──グラナのレイの印も、そのなかに入る」
「もう片方は」
「もう片方は、それじゃ商会の二の舞だと言う。組合だけで連合じゅうの品を検めきれるのか。抜き取りに頼れば、また外れが混じる。それなら、現に当てている目利きを認めて、組合と手を組むべきだ、と。──こっちは、まだ数が少ないけれど」
俺はテオ・ハルクの顔を思い出した。
いつだったか、グラナまで来た銅の徽章の若者だ。組合のなかにも、ああいう人がいるのだと知った。徽章の格より、現に当たるかどうかを大事にする者。けれどまだ少数なのだろう。
銅は、銀より下だ。組合のなかでは、声の小さい徽章だった。テオがいくら正しいことを言っても、金や銀の長老たちには届きにくい。セレネの話を聞きながら、俺はそのことを思った。正しさと、声の大きさは別ものらしかった。
「父はどっちなんですか」
俺がそう問うと、セレネはしばらく黙った。
それから文の端をそっと指でなでた。
「父は……どっちでもないの。理事だから。両方の言い分を聞かなきゃいけない立場。片方に寄れば、もう片方が黙っていない。だから父は、いつも真ん中で揺れている。──決めかねている、というのが、いちばん近いかしら」
セレネの声は静かだった。
父を責める調子ではなかった。むしろその揺れの重さを分かっていて、案じているような声だった。金の徽章を持つ理事が、毎晩のように評議の間で板挟みになっている。その姿が、文の向こうに透けて見えるようだった。
「あなたが、うらやましい」
ふいにセレネがそう言った。
俺は思わず顔を上げた。意味が分からなかった。
「あなたは視たまま言うだけでいい。良いものは良い。悪いものは悪い。組合がどう言おうと、評議の間がどう揺れようと、あなたの目は変わらない。──わたしは、そうはいかない」
セレネは自分の胸の銀の徽章に手をやった。
「わたしはこの徽章を誇りに思ってた。長く学んでようやく手にした銀。でも種もみのとき、思い知ったの。わたしの目では、死んだ種が分からない。等級は読めても、芯は読めない。──あなたの隣にいると、徽章で読めないものが、こんなにあるんだって、毎日突きつけられる」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
セレネの目は、銀の徽章を持つ者の目だった。長く積み上げてきたものが、隣の男のひと目で越えられていく。その悔しさと、それでも隣にいることを選んだ複雑さが、そこには混じっていた。
「でもね」
セレネはふっと顔を上げた。さっきまでの曇りが、少し晴れていた。
「悔しいけど、嫌じゃないの。あなたの目を見ていると、徽章ってなんだろうって、考えさせられる。格でも誇りでもなくて。──ただ、品を本当に視るって、どういうことなんだろうって」
その横顔を俺はしばらく見ていた。
そのとき、卓の向こうから声がした。
「なに、しんみりしてんのよ」
フィオナだった。剣の手入れをしながら、こちらをのぞいていた。
「悩んでてもさ、品は逃げないでしょ。レイは視る。あんたは隣で覚える。あたしは、変なやつが来たら剣で追い返す。それでいいじゃない」
あまりにまっすぐで、俺は少し笑ってしまった。セレネもつられて笑った。
奥ではミレイユが帳面をつけていた。こちらの話を聞いていたのか、いないのか。ふと顔を上げて静かに言った。
「組合がどう変わろうとグラナはグラナのやり方でいくわ。借りはぜんぶ返した。もう、誰の顔色もうかがわない。──セレネ。あなたの居場所は、ここにあるから」
セレネは何も言わなかった。ただ銀の徽章を握る手の力が、少しゆるんだように見えた。
俺はその夜なかなか寝つけなかった。
組合は揺れている。父の理事は板挟みのまま決めかねている。やがてその揺れは、グラナにも、俺の目にも、どこかでぶつかってくる。種もみの一件は、その前ぶれにすぎないのかもしれなかった。
◇
同じ夜。メルダートの組合本部。
ロデリックは自室の卓に一人で座っていた。金の徽章を外し、灯のそばに置いていた。
昼間の評議はまた結論を見なかった。徽章の格を締めよという声。現に当てる目利きと手を組むべきだという声。どちらも理がある。どちらに寄っても、組合の半分が反発する。元締めになるべきだと吠える者は、組合の権威を守りたい。手を組めと説く者は、連合の品を守りたい。守るものが違えば、言葉は永遠に交わらなかった。
ロデリックはグラナの娘の顔を思った。
徽章を持ちながら、徽章のない男の隣に立つことを選んだ娘。あれは正しいのか、間違っているのか。父である自分にも、まだ答えは出せなかった。ただ一つだけ確かなことがあった。あのグラナの目利きは、本物だった。商会を崩したのは、力でも策でもなかった。ただ視たまま言っただけの男だ。
その男を、無効と切り捨てていいのか。
ロデリックは灯を見つめた。決めかねたまま、また一晩が過ぎようとしていた。
◇
遠いメルダートで、いくつもの徽章が今夜も言い争っている。
その評議の間に、いつか俺も呼ばれる日が来る気がした。なぜかそんな予感がしていた。
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