第108話 種もみの村
男が背負っていたのは、来年の蒔きつけの種だった。
袋の口を開けると、麦の種がぎっしり詰まっていた。つやつやと光って、いかにも良さそうに見えた。男はその袋を、宝物でも扱うように両手で支えていた。
「ダンスク保証の焼き印つきで、村じゅうの蒔きつけの種を、まとめて買っただ」
男は息を整えながら言った。
「連合いちの保証だ、間違いねえと言われて。村の有り金をはたいて買った。三つの村が、銭を出し合ってな。──だけんど、どうにも胸騒ぎがして。お願いです。これは、ちゃんと芽吹く種ですかい」
俺はその種もみを手に取った。
一粒つまみ上げた。光にかざした。それからひとつかみを手のひらに広げて、じっと視た。
つやはあった。粒もそろっていた。表だけ見れば、上等な種だった。けれど──。
「……ダメですね、これ」
俺は静かに言った。男の顔がこわばった。
「半分以上が、死んでます」
俺は手のひらの種を、一粒ずつ指で分けて見せた。
「古い種に、火を入れて乾かしたものが混じってる。去年の売れ残りです。一度しけって芽の力が抜けた種を、火であぶって乾かし直してある。そうすると見た目はつやつやして、新しい種そっくりに化ける。でも芯が死んでる。これを蒔いても、半分は芽を出しません」
男の手が震えた。
「そんな……村じゅうの、来年の食いぶちが」
男はその場にくずおれそうになった。机の縁をつかんで、かろうじて体を支えた。
「三つの村で、銭を出し合っただ。蓄えを、ぜんぶ。今年は雨が少なくて、ただでさえ実りが薄かった。それでも来年こそはと、みんなで……それが、半分死んでるなんて」
男の声は、しだいに細くなっていった。
俺はその顔を見ていた。怒りではなかった。途方に暮れた顔だった。だまされたという憤りより、これからどうやって村を食わせるのか、その途方のなさが先に来ていた。背負ってきた種袋が、急に重たくなったように、男の肩は落ちていた。
◇
俺はその種をもう一度視た。
生きている種と、死んでいる種。表からは、ほとんど見分けがつかない。けれど視れば分かった。生きている種には、芯にほんのわずかな張りがある。死んだ種は、その張りがない。火であぶられた種は、つやだけが浮いて、中身が空っぽになっていた。
徽章持ちが検めても、これは通っただろう。等級で言えば、上等だった。粒はそろい、つやもある。徽章はそこを読む。けれど芯が生きているか死んでいるかは、読まない。
会頭の偽印とは、違った。ヴィオラは本物の鑑定士を雇った。焼き印に嘘はなかった。それでもこの壁は越えられなかった。死んだ種は、見抜けなかった。
「間に合います」
俺は顔を上げて男に言った。
男がはじかれたように俺を見た。
「まだ蒔きつけまで日があります。この袋は返して、ちゃんと芽吹く種を買い直せばいい。──ダメな種は、俺がここで全部選り分けます。生きてる種だけ、よけておきましょう。それを蒔けば、村の畑はちゃんと実ります」
男は机に額をこすりつけた。そして泣いて礼を言った。
日に焼けた手が、何度も俺の手を握った。ひびの入った、固い手だった。土を握り続けてきた手だった。
「ありがてえ……ありがてえ……」
俺は少し困った。
ただ視ただけだった。死んだ種を、死んでいると言っただけだ。礼を言われるほどのことは、していない気がした。それでも男の涙は止まらなかった。
◇
その日、俺はずっと種を選り分けていた。
生きている種と、死んでいる種。一粒ずつ手に取って、生きているほうをよけていく。気の遠くなる作業だった。けれど途中でやめる気にはならなかった。これ一袋で、三つの村のひと冬がかかっている。
生きた種は、わきの皿へ。死んだ種は、別の桶へ。皿の山は、なかなか増えなかった。桶のほうばかりが、重くなっていった。半分以上が死んでいるという見立ては、選り分けるほどに正しさを増していった。
セレネも途中から手を貸してくれた。
銀の徽章を持つ娘が、農夫の種を一粒ずつ選り分けている。妙な眺めだった。けれどセレネは、嫌な顔ひとつしなかった。
「わたしの目では、これは分からない」
セレネはつまんだ種を光にかざして言った。
「等級なら読める。粒のそろいも、つやも。でも生きてるか死んでるかは、視えない。あなたが死んでると言った種を、わたしがいくら睨んでも同じ種にしか見えないの」
セレネの声には、悔しさがにじんでいた。
徽章を持つ者の悔しさだった。長く学んで得た目で読めないものを、徽章のない男が、ひと目で読む。その差を、セレネは隣で見ていた。
フィオナが横に来て、一緒に手伝ってくれた。
「あんた、よくこんな細かいの、根気が続くわね」
「慣れてます。検品場で、六年やってましたから」
フィオナは少し笑って、それからまじめな顔になった。
「でもさ。この村は、運がよかったわよね。胸騒ぎがして、ここまで来た。──来られなかった村は、どうなるの」
俺は手を止めた。
その問いは、俺もずっと考えていたことだった。
この種を死なせずに済んだのは、男が胸騒ぎを信じてグラナまで来たからだ。四日の道を、種袋を背負って歩いてきた。けれど連合じゅうの村が、みなグラナまで来られるわけじゃない。気づかずに蒔いて、ひと冬を棒に振る村が、きっとどこかにある。
それを思うと、胸の奥が重くなった。
穴は誰かが埋める。ヴィオラの言葉は、正しかった。けれどただ埋めればいいわけじゃない。死んだ種で埋めた穴は、もっと大きな穴になって返ってくる。芽の出ない畑。実らない秋。飢える村。穴を埋めたはずの焼き印が、別の場所で穴を空けていた。
「全部は、視られません」
俺はぽつりと言った。
「俺の目は、一つずつしか視られない。連合じゅうの種を、全部は視られない。だから──」
言いかけて、言葉が続かなかった。
だからどうすればいいのか。それが分からなかった。良いものを良いと視る。それだけでは、届かない場所がある。そのことが、種もみの一粒一粒を通して、静かに俺の胸に積もっていった。
男は次の朝に生きた種を背負って北へ帰っていった。
その背が門の向こうに消えるまで、俺は見送っていた。村の畑は、来年もちゃんと実るだろう。けれど見送りながら、俺の胸には、まだ重いものが残っていた。
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