第107話 ダンスク保証
ヴィオラ・ダンスクが去って、半月が過ぎた。
あの女の言葉どおり、次の手は近いうちに来た。けれどそれは使者でも文でもなかった。連合じゅうを駆けめぐる、ひとつの噂だった。
バッソが隊商の知らせを持って、ギルドへ駆け込んできた。息が上がっていた。
「レイ、聞いたか。ダンスク保証だ。連合じゅうで、えらい広がりようだぞ」
「ダンスク、保証」
俺は手を止めた。
「ヴィオラ・ダンスクの店だ。連合じゅうの品に、自分とこの保証の焼き印を押し始めた。徽章持ちの鑑定士を何人も雇ってな。片っ端から検めさせて、印を押して売る。──グラナの目利きの印より、安い。早い」
バッソは指を折った。
「なにせ連合じゅうに荷馬車を持ってる。どの街にも、その日のうちに届く。商人たちが、わっと飛びついてるとさ」
俺はあの夜の言葉を思い出した。
穴は誰かが埋める。あなたが埋めないなら別の誰かが。ヴィオラはそう言って出ていった。そして本当に自分の手で穴を埋めにかかった。グラナが断ったから自分のやり方で。
動きが速かった。
断られたその足で、もう別の道を走り出している。会頭なら断られて怒鳴り散らしていただろう。あの女は違った。怒りもせず、ただ次の手を打った。それがかえって油断のならない相手だと知らせていた。
「焼き印って、どんなのだ」
俺が問うと、バッソは指で宙に形を描いた。
「帆の形だとさ。商家の紋だ。ダンスクの帆。それが押してあれば連合いちの保証だってんで、みんなありがたがって買ってる。値も手頃でな。グラナまで来るより、ずっと安く上がる」
帆の紋。
あの女が出ていったとき、最後に残した笑みを思い出した。面白いものを見つけた、という顔だった。断られて、むしろ楽しんでいるようだった。そのときすでに、この手は頭のなかにあったのだろう。
「商売の上手さは、本物ね」
ミレイユがぽつりと言った。
「会頭は力で押してきた。脅して、囲い込んで、嘘の印を押した。あの人は違う。本物の鑑定士を雇って、安く早く届ける。正面から、まっとうな商いで来てる。──だから、たちが悪い」
◇
「うちの客が、何人か向こうへ流れたわ」
ミレイユが帳面から顔を上げた。声に焦りはなかった。ただ事実を読み上げるような調子だった。
「責められないわね。安くて、早くて、連合じゅうに届く。商人なら、そっちを選ぶ。──でも」
「でも、検めが追いついているか、ですね」
俺がそう言うと、ミレイユはうなずいた。
セレネが、机の向こうから口を出した。徽章持ちの顔をしていた。
「徽章持ちを何人雇おうと、連合じゅうの品を一つずつ視るのは、たやすいことじゃない。数が多すぎれば、抜き取りになる。代表を何個か検めて、残りは通す。──商会と、同じやり方よ」
俺はそれを、六年の検品場で知っていた。
抜き取りでは、底も芯も見抜けない。表のつやがどれだけよくても、袋の真ん中で何が腐っているかは分からない。一つずつ視るしか、ないのだ。
商会の検品場にも銀の徽章の鑑定士がいた。腕は確かだった。けれど一人で連合じゅうの荷を抱えきれず、抜き取りに頼るしかなかった。代表の何個かを検めて、残りはそのまま流す。そうやって流した荷の底に腐った干し肉や芯の傷んだ鉄が紛れていた。
徽章は、品の等級を読む。良い鉄か、悪い鉄か。古い革か、新しい革か。表に出ているものは、よく読む。けれど袋の真ん中で何が起きているかは読まない。一粒の種が生きているか死んでいるかも読まない。それは数を一つずつ視て、初めて分かることだった。
あのときと、同じことが起きようとしている。
ヴィオラは会頭より賢い。それは間違いなかった。本物の鑑定士を雇った。偽の印は押していない。けれど賢くても、品の数は減らない。徽章で芯の巣は読めない。その壁だけは、頭のよさでは越えられなかった。
違うのは、商会が一つの店だったことだ。ダンスク保証は、連合じゅうに広がっている。穴を埋めるはずの保証が、連合じゅうに外れをばらまく。そうなれば、商会の比ではなかった。
◇
はじめのうちは、ダンスク保証の勢いは止まらなかった。
ひと月のあいだに、焼き印は東へ西へと広がった。グラナの戸を叩く商人が、目に見えて減った。昼間は断りきれぬほど人が来ていたのが、嘘のように静かになった。
「楽になった、と言えば楽になったわね」
ミレイユは苦笑した。
「でも、こういう静けさは、好きじゃない」
俺も同じだった。
客が減ったのは、グラナの品が悪くなったからではない。ただ安くて早いほうへ、皆が流れただけだ。それを止める術は、俺たちにはなかった。良いものを良いと視る。外れを外れとはじく。できるのはそれだけで、連合じゅうに荷馬車を走らせることはできない。
数日が過ぎた。
すると、流れていったはずの客が、ぽつりぽつりと戻り始めた。一人、また一人。
「向こうの品で、しくじったらしいわ」
ミレイユが、戻ってきた商人の話を伝えた。
「ダンスク保証の油を仕入れたら、灯してすぐ消えた。樽を買ったら、底が抜けた。──保証の焼き印が押してあるのに、外れだった、と」
階段を一段下りて、また半段上る。客の数はそんな揺れ方をした。流れて、戻って、また少し流れる。けれど戻ってくる足は止まらなかった。
戻ってきた商人の一人が、机の前でこぼした。
「安物買いの銭失いだ。ダンスクの印は安いが、外れたときに泣くのはこっちだ。やっぱりここの目利きで視てもらわねえと、おちおち仕入れもできやしねえ」
俺はその革を視た。買い直しに持ち込んだ品だった。なめしが甘く、芯まで脂が回っていなかった。表だけ油を塗って、つやを出してある。
「……これは、雨が来たら裂けますね」
俺がそう言うと、商人は天を仰いだ。
壁が、現れ始めている。ヴィオラの保証は、広がるのと同じ速さでほころび始めていた。けれど焼き印の勢いは、まだ止まらない。外れに泣く者と、安さに飛びつく者が、連合のあちこちで入れ替わり立ち替わりしていた。
その日の夕方だった。
北の村から、一人の男がグラナへ駆け込んできた。日に焼けた、農夫の手をした男だった。背に、麻袋を一つ背負っていた。
「目利きのレイ様。どうか──どうか、これを視てくだせえ」
男の声は、すがるようだった。机の前に袋を下ろす手が、震えていた。
俺はその袋に、目を落とした。何が入っているのか、まだ分からなかった。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




