第106話 ヴィオラ・ダンスク
入ってきたのは、一人の女だった。
四十手前だろうか。仕立てのいい旅装をまとっていた。けれど飾り立ててはいなかった。動きやすく、無駄のない身なりだった。背筋がまっすぐで、目に強い光があった。商人だ、とひと目で分かった。それも、相当に大きな商いをする者の目だった。値踏みする目だが見下す色はなかった。ただすばやく値打ちを測る目だった。
昼間に来た商人たちとは、まるで気配が違った。
あの者たちは、銭の匂いをぷんぷんさせて、こちらを取り込もうと前のめりだった。この女には、そういう焦りがなかった。落ち着いて、こちらの底を見ていた。それがかえって油断のならない相手だと知らせていた。
「グラナまで、ずいぶん遠うございました」
女は椅子を勧められる前に、自分で腰を下ろした。
「大商人連合で、いくつか店を持たせてもらっている者です。あなたの噂は、連合じゅうで聞きました。徽章なき目利き。組合が無効と言い張っても、現に当たり、現に外れをはじく。一度、この目で見たくて、足を運んだ次第」
ミレイユが、すっと前に出た。
「ご用件は」
商人との掛け合いには慣れている。会頭の使者を何度もあしらってきた人だ。声に、隙のない警戒がにじんでいた。
「単刀直入に申しましょう」
ヴィオラは薄く笑った。
「バルロ商会が消えました。連合じゅうの品の信用を長年あの商会が背負ってきた。その商会が、まるごと無くなった。──いま連合には、ぽっかりと穴が空いています。誰が品の確かさを保証するのか。誰の名なら信じていいのか。みんなが、その答えを探して右往左往している。大きな穴です。そして大きな穴には、大きな儲けが眠っている」
俺はその話を聞いていた。
言っていることは、分かりやすかった。商会が抜けた。信用を担う者がいなくなった。だから皆が困っている。それはグラナのギルドが毎日感じていることだった。
「その穴を、わたくしが埋めたい」
ヴィオラはまっすぐに俺を見た。
「いいえ。正しく言えば──あなたと組んで、埋めたい。レイさん。あなたの目利きの印は、いまや連合いちの信用です。けれどあなたには、店も隊商も、各地の取引先もない。グラナの小さなギルドが、連合じゅうの品をさばききれますか。無理でしょう。よい目を持っていても、それを連合の隅々まで届ける足がない」
その通りだった。グラナのギルドは、もう手いっぱいだった。連合じゅうから来る品を、とても全部はさばけない。昼間も、断りきれぬほど人が来た。
「わたくしには、足があります」
ヴィオラは指を折って数えた。
「連合じゅうの店。何百台もの荷馬車。どの街にも取引先がいる。あなたの目と、わたくしの足。二つが組めば、連合の信用の穴を、まるごと埋められる。あなたは品を視るだけでいい。運ぶのも、売るのも、銭の勘定も、組合との面倒な掛け合いも、すべてわたくしが引き受けます。──どうです。悪い話ではないでしょう」
悪い話には、聞こえなかった。
俺が品を視て、ヴィオラがそれを連合じゅうへ届ける。困っている人に、確かな品が行き渡る。それはいいことのように思えた。
「お断りします」
けれどミレイユが言った。きっぱりとした声だった。
ヴィオラの眉が、わずかに上がった。
「あら。理由を、伺っても」
「同じ話を、前にも聞きました」
ミレイユの声は、静かだった。
「商会の会頭も、そう言ったんです。グラナの良い品を、商会の名で連合じゅうへ卸す、と。看板だけ借りて、中身を持っていく。──そして商会は、抜き取りでしか品を検められなかった。だから外れが混じって、人が死にかけた。ダンスクさん。あなたの荷馬車に、レイの目はついていけますか。連合じゅうに散らばった品を、レイが一つずつ視られますか。視られないなら、あなたが届けるのは、レイの印じゃない。レイの印を借りた、あなたの保証です」
ヴィオラはしばらく黙っていた。
それからふっと笑った。さっきまでの商売の笑みとは、少し違った。面白いものを見つけた、という笑みだった。
「なるほど。──さすが、商会を崩した街は言うことが違う」
彼女は立ち上がり、旅装の襟を直した。
「いいでしょう。今日のところは引きます。ですが、レイさん。一つだけ覚えておいて。──穴は、誰かが埋めます。あなたが埋めないなら、別の誰かが。そしてその誰かが、あなたほど品を大事にするとは、限りませんよ」
ヴィオラは最後にこう言い残して出ていった。
「また、お会いしましょう。きっと、近いうちに」
◇
戸が閉まったあと、部屋にしばらく沈黙が残った。
俺は彼女の言葉を思い返していた。穴は、誰かが埋める。確かにそうだった。グラナが埋めないなら、別の誰かが埋める。その誰かが品を大事にする人とは限らない。商会のときと同じことが起きるかもしれなかった。
「……あの人、商会の会頭とは違うわね」
セレネが、つぶやいた。
「会頭は自分が損をすることに気づいていなかった。でもあの人はたぶん全部分かってる。分かった上で、穴を埋めにくる。──いちばん厄介な相手かもしれない」
「断って、よかったんでしょうか」
俺は少しだけ迷っていた。
ヴィオラの話には嘘がなかった気がした。連合に穴が空いているのは本当だ。グラナの足が足りないのも本当だ。困っている人に確かな品を届けたい。その思いは俺にもあった。あの女と組めば、それがかなうかもしれなかった。だからこそ、断ってよかったのか、自分では決めかねていた。
俺が問うと、ミレイユはきっぱりと言った。
「よかったのよ。あの人と組めば、楽にはなる。銭も入る。──でも、あなたの目が、あの人の道具になる。あなたが視ていないものに、あなたの名がつく。それだけは、させない」
フィオナが、剣を磨きながら口を出した。
「でもさ。あの女、ただじゃ引き下がらないわよ。あの目、見た? 断られて、むしろ楽しんでた。──次は、もっと面倒な形で来るわね」
俺も、そんな気がした。
窓の外で、グラナの夜が更けていった。組合の票を数える老人がいて、連合の穴を狙う商人がいる。俺の知らないところでいくつもの勘定が動いていた。品を視るだけでは、もう済まない。そういう場所に、俺はいつのまにか立っていた。
ヴィオラ・ダンスク。
あの女が、次にどんな手で来るのか。俺にはまだ、見当もつかなかった。
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