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第104話 戦いの場所

 査定長の手は、出尽くしたようだった。


 印を無効にする通達。隣に開いた正規検め所。隊商を縛る触れ。組合公認の印の乱発。どれもこれも、グラナを締めつけようとして、かえって裏目に出た。検め所は数日で店じまいし、無印を運ぶなという触れは隊商に笑われ、乱発された組合公認の品は折れて割れて漏れた。


 その全部が終わってみて、残ったものがあった。


 グラナの相談所には相変わらず人が来る。印が無効だろうと、客は来た。隊商はグラナの裏書きの品を選んで運ぶ。よその街からもわざわざ品を持って人がやってくる。妨害をくぐり抜けるたびに、かえって俺の目への信用は固くなっていった。


「面白いものね」


 ミレイユが帳場で言った。


「叩かれるたびに、評判が上がっていく。──向こうが『あの目利きは認められていない』と言って回るほど、人は『そんなに認めたくないほどの目利きなのか』と思う。妨害が宣伝になってる」


「俺は、いつもどおりにしてるだけです」


「それがいいのよ」


 ミレイユは笑った。帳場には、礼の品が積まれていた。卵のかご。塩の包み。よその街の客が置いていった干し果実。銭の代わりに人が手ずから持ってきたものばかりだった。印という飾りが剥がれたぶん、目そのものの値打ちがむき出しになっていた。立派な焼き印より、折れない釣り針のほうがありがたい。人は結局、そこへ戻ってくる。


 俺は本当にいつもどおりにしていただけだった。来た品を視て、視えたまま言う。良ければ良いと言い、悪ければ悪いと言う。銭は取らない。礼の品が置いてあれば、ありがたく受け取る。それだけだった。妨害に言い返したことも、向こうを恨んだこともなかった。恨んでも、品はよくならない。それは商会のころから変わらない、俺のたった一つのやり方だった。


  ◇


 けれどすべてが片づいたわけではなかった。


 ある夕方、セレネが帳場の隅で、難しい顔をしていた。


「査定長は、もう手詰まりよ。現場でできることは、やり尽くした。──でも、それで終わりじゃないの」


「終わりじゃない、というと」


「戦う場所が、変わるの」


 セレネは組合の天秤の紋を指でなぞった。


「これまでの相手は、現場だった。市場で、隊商で、街角で。品の良し悪しで勝負がついた。あなたは品で勝てる。──でもね、レイ。本当の壁は、現場じゃない。本部の、評議会なの。あそこは品の良し悪しじゃ動かない。決まりと票で動く。あなたの目が、いくら正しくても、評議会が『認めない』と決めれば、印は無効のまま。連合じゅうが、そのままになる」


 俺には、その仕組みがうまく飲み込めなかった。


 品が良ければ、それでいいはずだった。良い品は良い。悪い品は悪い。視ればわかる。なのにその当たり前が、決まりと票という遠いところで、ひっくり返される。会頭のときにはなかった戦い方だった。会頭は嘘を暴けば崩れた。けれど決まりは、嘘ではない。誰も嘘をついていない場所で、俺の目はなかったことにされる。


「テオさんも、言ってました」


 俺は囲炉裏の話を思い出した。


「本部であなたの目が試される日が来る、って。そのとき自分は側に立つ、って」


「そう。たぶんその日は近い」


 セレネは声を落とした。


「本部から、また何か来るわ。今度は通達じゃない。あなたをこちらへ呼ぶための、もっと大きなものが。──父も、たぶんそこにいる」


 セレネは父の話になると、いつも目を伏せた。組合の理事である父と、徽章を持ちながらグラナに来た娘。二人のあいだには、まだ越えていないものがあった。


 俺はその横顔を見ていた。


 セレネは銀の徽章を持っている。本来なら、本部の側に立つ人だった。それがグラナに来て、徽章なき俺の目を裏づける役を引き受けている。父と組合に背を向ける形で。それがどれほどのことか、俺にはまだ半分も分かっていない気がした。人の腹のなかは、品と違って視えない。セレネがどんな思いで父の話をしているのか、その色までは俺には読めなかった。


  ◇


 戦う場所が、移る。


 俺はその言葉を、夜になっても考えていた。


 グラナの相談所は、ささやかな場所だった。釣り針を視て、薪を視て、鍋を視る。困っている人に、視えたままを言う。それで誰かが助かる。俺の戦いは、ずっとそういうものだった。けれどこれからは、丘の上の白い建物で、徽章持ちが居並ぶ前に立たねばならないらしい。決まりと票が動く場所。品より、人の思惑が物を言う場所。


 正直、気は重かった。


 俺はそういう場所が苦手だった。会頭の屋敷の立派な広間も苦手だった。人の腹のなかは、品とちがって視えない。誰が味方で誰が敵か、顔を見ても分からない。品なら、視ればわかるのに。


「でも」


 俺は窓の外の月を見て、つぶやいた。


 やることは、たぶん同じだった。場所がどこに変わろうと、相手が誰だろうと。品を視て、視えたまま言う。それだけだ。決まりや票のことは、俺には分からない。けれど目の前の品が良いか悪いかは、分かる。だったら、いつもどおりにすればいい。そこだけは、丘の上だろうと、市場だろうと、変わらないはずだった。


「視たまま、言うだけです」


 俺がそう言うと、フィオナが囲炉裏の向こうで笑った。


「あんたは、それでいいのよ。──難しい顔は、ミレイユとセレネに任せときな。あたしは、あんたが行くとこ、どこでもついてくわ。剣を持って」


「頼もしいです」


「でしょ」


 フィオナの言い方は、いつも単純だった。難しいことは考えない。考えるのはミレイユとセレネに任せる。自分は剣を持ってついていく。それだけだった。けれどその単純さに、俺はいつも助けられていた。組合だの、票だの、信用の穴だの。頭の重くなる話ばかりのなかで、フィオナの言葉だけは、まっすぐで温かかった。視えないものに迷う俺の隣に、視えるものだけを信じる人がいる。それはありがたいことだった。


 翌朝、街道のほうから、馬のひづめの音が近づいてきた。


 いつもの隊商ではなかった。数頭の馬。仕立てのいい鞍。そしてよその商人らしい身なりの男たちが、何人も乗っていた。彼らはグラナの門の前で馬を下りた。一人ではなかった。べつべつの街から来たらしい男たちが、申し合わせたように、同じ日にグラナを目指していた。


 俺はまだ知らなかった。


 商会が消えて、連合に空いた大きな穴。その穴を狙って、いくつもの手がいっせいにグラナへ伸び始めていたことを。戦いの場所は、評議会だけではなかった。連合じゅうが、ざわつき始めていた。

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