09.親方も可愛い男の子でした
奏多が顧客リストを警察に渡してからは、ぱたりと警察の来訪はなくなった。
職人たちも、警察の事情聴取のせいで度々手を止めざるを得なかったが、カラリとした明るさを取り戻した。
いくら威勢がよくて、活気に満ちあふれていても、邪魔が入ったらそこはかとない負の空気は生じてしまう。
それがなくなったことに、円香は安堵した。
だけど、パソコンに向かうと、どうしても〝ハッキング〟という単語が浮上しては消え、また浮上してくる。
些細な澱みはやがて石にこびりつく苔のように、思考に蔓延るようになった。
このパソコンは安全なんだろうか。
「なんだ円香ちゃん、暗い顔してるな」
顔を上げると、作務衣で手を拭くベテラン職人の姿があった。
「やっさん。お手洗いですか?」
「おう。それより、なんかあったのか? 今日は親方もいないし、一人で寂しいのか」
「寂しいって……子どもじゃないんですから」
円香が下唇を突き出すと、やっさんは、ガハハ、と豪快に笑った。
「作業のほうはどうですか?」
「バッチリだよ。いやぁ、本当に円香ちゃんには感謝してるよ」
深いしわの刻まれた顔を、やっさんはさらにくしゃりと破顔させた。
「あんな爆発、長い職人生活の中で初めてのことだ。安全管理は基本中の基本なんだがな」
瞼の落ちた瞳はどこか遠いところを見つめている。
円香は丸めた背中を伸ばして、耳を傾けた。
「正直言うと、もう職人人生終わったと途方に暮れたよ。それがあっという間にこんな立派な工場を用意してくれて。ありがとうな」
「なんですか、急に」
「ははは、言うタイミングがなかっただけさ」
いつでも声を掛けてくれていいのに。だけど、職人たちの手が休まる暇はない。トイレの帰りにたまたま一人ぼうっとしている円香を見つけたのだろう。
「いえ。私だけでは全然……。資材の手配は里中先輩のおかげです。それに――」
自分のパソコンが原因で爆発が起きたのかもしれない。
そう思うと、罵倒されこそすれ、感謝されるいわれはない。
「親方の避難誘導が的確だったからですよ。私なんてパニックでどうしていいか」
「あぁ。そうだな」
やっさんは嬉々としてドンッと円香のデスクに手をついた。
「あの時の親方には感心したよ。俺なんて、アイツがこーんなちっちゃい頃から見てたから、あれだけ落ち着いて……ガキは育つもんだねぇ」
「親方の小さい頃を知ってるんです?」
「そりゃあ、三十年も佐伯煙火店に世話になってりゃな」
円香はほぉ~と口を縦に開けた。
「ま、蛙の子は蛙。大将になるべくして生まれてきたってことだな」
やっさんは講釈を垂れるように、腕を組んだ。
「やっぱり親方はすごい人なんですね!」
「おうよ。つっても、この先どうなるか。体がきかなくなるまで、働かせてもらうつもりだったが……」
尻すぼみになる言葉に、眉根が寄ってしまう。
「今年は臨時でここを用意しましたけど、花火大会が終わったら……」
「暖簾を下ろすことになる」
零れ落ちた言葉は、昇が言っていたもの。
もし佐伯煙火店への出向がなくなっても、円香には別の業務はある。
昇や職人たちとは、まったく立場が違うと突きつけられる。
やっさんは一瞬だけ切なそうに目を細めるも、ガシガシと円香の頭を撫でた。おじいさんが孫にやるような雰囲気で。
「円香ちゃんが気にすることじゃない。なんだかんだ横の繋がりってもんはあるんだ。
けど、最後に盛大な花を咲かせようじゃねぇか」
円香は、今はこういうのセクハラとか言われちゃうんだけどなぁ、と思いつつも、やっさんの真っ直ぐな優しさと気遣いに、数秒、身を任せた。
円香の陰りが晴れたのを見て取ったのか、やっさんは手を離した。
「それによ、元から代替わりしたらすぐに畳むことになると思ってた奴も多いんだ」
「どういうことです?」
驚いた円香に、やっさんの意外そうな丸い目が返ってきた。
「聞いたことなかったか。若親方として戻ってきた時、花火のことをわからないどころか、あまりにも軟弱で、すぐ音を上げるんじゃないかって。みんな言ってたんだ」
「え。そうなんですか!? 若親方って、昇さんのことですよね」
当然と言いたげに、やっさんは首肯する。
「なんていうのかなぁ。こういう汚れ仕事が似合わない奴になっちまったなって。
ガキの頃は危ないから工場には入るなって言い聞かされてたけど、花火師の真似して泥団子や粘土なんかに、色んな砂や色の粉を入れて遊んでたんだ」
「あの親方が? なんだか意外です」
男臭い工場で、一人だけ爽やかな親方。なんでもできてしまう人だと思っていたが、子ども時代は可愛らしい男の子だ。
「変わったのは大学に入ってからだよ。ま、大学で洒落たダチもできて、就職もして。そりゃあ今のご時世、こんな仕事は若い奴らに流行らないだろうけどよ」
そういうものだろうか。
円香の家も、親は普通の会社員。自身も大学へ進んで就職活動をした。
だけど、実家が花火工場だったら――
円香は渋い顔で唸り始めた。
「わかりやすいなぁ、円香ちゃんは」
「スミマセン。花火職人さんって遠い存在だったので、なんだかイメージ湧かなくて。
花火大会も観るもので、裏がこんなに大変なんて考えたこともなかったです。
こうして仕事で携わってから、素敵な人たちだなって思うようになりました」
「うまいこと言うねぇ」
「本心です」
からかってくるやっさんに、反射的に答える。
「前の親方が息子に譲るって言った時、さすがに本人が受けないと思ったもんだよ。
エリートだったしなぁ」
エリート?
首を傾げていると、やっさんは昇が勤めていた会社を教えてくれた。誰もが知る大手老舗メーカーの名前に、円香は目が飛び出そうなほど驚いた。
「花火大会が終わったら、どうするかねぇ。そういう会社って出戻りとかできるもんなのか?」
「ど、どうでしょう。わからないですけど……」
戻れたとして、歓迎されるのだろうか。
「親方、色んなもの抱えてるんですね」
会社員のままなら、安泰だったはず。それを捨てて戻ってきたのに爆発騒ぎ。家が長く受け継いできた日本の伝統。そして職人たちの人生。
荷が重すぎる。
円香はしばし目を伏せていたが、やがて顔を上げた。
「とにかく、まずは二週間後の成功を目指しましょう。再建もなにも、それからですよ」




