11.諦めるしか、ないのでしょうか
体を形作る輪郭と世界が遠く隔たれてしまったような心地で、円香は工場から漏れるぼんやりとした灯を見上げた。
等間隔に並んだLEDの人工的な光の中に、たしかに自分はいた。門扉を一歩出ただけなのに、これまでの時間が一時の夢だったみたいだ。ふわふわとした雲の中を揺蕩っている。
夢。そうだ、これは夢なんだ――
だけど、ノートパソコンを入れた鞄の重みが、円香を現実に引き留めた。
自分はただの出向エンジニアで、このパソコンがなければ花火の制作現場にいる意味なんてない。
湿気を孕んだ風が首筋をかすめ、頭がのぼせ上がっていく。
◇
翌日、円香は本社オフィス休憩室のベンチで、うつ伏せに燃え尽きていた。
ズレた眼鏡の奥には死んだ魚のような虚ろな目、半開きの口からは呪詛のような何かが垂れ流されていた。
「や、山岸さん……?」
「アー、サトナカセンパイ……」
「……生きてる?」
どう見ても引いている奏多。気を遣ってくれるも、円香はノロノロと首を回すだけで精いっぱいだ。
「ひとまず、ちゃんと座ろうか。俺も隣いいかな」
穏やかではあるが、有無を言わさぬ命令口調に、円香は緩慢に体を起こした。ベンチにちょこんと座るも、膝を抱えるようにぐったりとうずくまってしまう。
「話は聞いたよ。佐伯煙火店は出場を辞退したい意向だって」
奏多は円香の反応をうかがうが、さらに小さくなっていく。
「山岸さん」
「…………」
「……山岸さん」
わずかに硬い声で、二度、呼びかける。それでも反応がなく、奏多はふーっと細い息を吐いた。
「いいかい、山岸さん。佐伯煙火店に出向しているのは、遊びじゃないんだ。
窓口は山岸さんだとしても、会社同士の取引なんだ。それをよく考えてごらん」
「あ、遊びだなんて……」
熱を帯びた先輩指導に、円香は消え入りそうな声で、ようやく少しだけ反論した。
「本当に? 昇さんや職人さんたちと仲良くなって、楽しい実験みたいな気分になってたってことはない?」
痛いところを突いてくる。
円香だって、当初は仕事だからと無理をしながら出向いていた。
だけど馴染んでくるにつれて、居場所を見つけたような気持ちが膨れていったのも事実だ。
佐伯煙火店にとっては、短期間やってくるだけの部外者なのに。
辞退の申し出で、その差をまざまざと突きつけられたのだ。体の一部を引き剥がされたように、言うことを聞いてくれない。
「俺は山岸さんの判断はよかったと思ってる」
あまりにも真剣な奏多に、円香は引き寄せられるように顔だけ向けた。
「爆発が起きて、佐伯煙火店が壊滅。どう考えても花火大会に出られないっていう危機だったじゃないか。それを、なんとかして再興させようとした」
奏多は両膝を叩くように立ち上がると、自販機に小銭を入れた。
ピッと機械的な音が鳴る。コップがカタリと下りて、ジョロジョロと液体が注がれる。
「どうにもならなくなったら、上に泣きつけばいいんだよ。そうやって会社は回っていく。
今回なんて、トラブルどころじゃない。大抵は途方に暮れて頭を抱えているあいだに、本当にどうしようもなくなる。
それを、あんな短期間で判断して稼働させるなんて、よくやったって思う」
奏多は自販機から紙コップを取り出すと、もう一度ボタンを押した。
ドリンクが落ちるリズムに合わせて、円香はゆっくりと体を起こす。
二つの紙コップのうち、一つを円香に渡しつつ、奏多はまた隣に腰かけた。
二人ともすぐに口はつけず、両手の中で転がしている。
「……でも、もう親方は辞退するって」
ぐずるように言うと、鼻の奥がツーンと痛くなった。それが目のほうにせり上がりそうになり、円香は顔の筋肉をくしゃくしゃに歪めて目を閉じる。
「変な顔」
「笑わないでください」
「悪いわるい」
奏多は湯気の立つカップを口に運んだ。
「本当に辞退するのか?」
円香は薄目を開けて、横目で奏多を見やった。
しばし言葉を探しながら、誤魔化すようにドリンクをぐいと飲む。ココアだった。甘い香りが強張っていた体をにわかにほぐしていく。
ふぅ、とため息まじりに肩を落とすと、円香は口元を歪めながら話し始めた。
「諦めたくは、ないです。会社に迷惑を掛けてることもわかってます。
けど、残りの期間で大玉は作れません」
「詳細は聞いてる」
その言葉に、円香はガッと奏多に向き直って声を上げた。
「なら、無理だって思いませんか!
新しい工場で作り直すって決めた時でさえ、ギリギリだったんです。
空調設備があったから、間に合うほうに賭けました。
職人さんたちも、一年掛けて作ってきたものを、またゼロから作り直す。
皆さん笑ってますけど、空元気なんじゃないかと感じる時もありました。それでも夜遅くまで残って、朝も早く出てきて。
だって、そうじゃなきゃ、やってられませんよ。なのに、なのに……」
濁流のように吐き出された言葉は、そこで途絶えた。
喉のところで、次の一言が詰まっている。言葉にして、認めてしまうのが、怖い。
「私のせいで、私が、うちが持ってる工場なら使えるって提案したのに、管理が行き届いてなかったせいで……」
「山岸さん」
宥めるように、奏多も正面から円香を見据える。
「私がいけないんです。パソコンだって、ハッキングされてることに気付かなかった。
これがもし、里中先輩みたいに慣れた人だったら、こんなことには……」
「それは違うよ!」
腹の底から出るような大きな声が、円香の頭上から降り注いだ。
「それは違う。山岸さんの責任じゃない。冷静になってごらん」
「…………」
今にも決壊するほどに濡れそぼった円香の瞳が、すがりつくように奏多を見上げる。
「山岸さんは必死で花火大会に向けて動いてきた。
予定していた花火の準備は間に合わないかもしれない。だけど、諦めたくないんだろ。
だったら、俺たちエンジニアがやらなきゃいけないことはなんだ?」
熱を帯びた奏多の檄と、その眼差しが、円香の体の奥深くに沁みてくる。
「エンジニアとして、やらなきゃいけないこと……」
瞳を落とすと、コップに残ったココアは、粉が底に沈殿していた。
しばし、それを見つめて円香は自分の脳の回路に問いかける。
今の時点から、いったい何ができるだろうか。
プログラミングで考えるなら、単なるバグでは収まらない。
すっかり仕様から変わってしまった状態だ。だとしたら……。
「演出を、変えます」
その答えに辿り着いた円香からは、すっかり潮が引いていた。
奏多は、口元をぐっと引き上げる。その答えを待っていたかのように。
分離したココアをぐびぐびと飲み干し、円香はバッと立ち上がる。
「ありがとうございます。里中先輩。私、行ってきます!」
「おう。期待してるからな」
「はい!」
コップをおざなりにごみ箱に放り捨て、円香は駆け出した。
その背中を見送りつつ、奏多は「面白くなってきた」と独り言ちた。
◇
本社オフィスから佐伯煙火店が使っている工場までは、電車で二十分。
乗り込んだ車体のドアが開閉する度に、花火大会のポスターが目に飛び込んでくる。その度に背中を押される心地がした。
一分、二分の停車時間がもどかしく、「早く発車して」と気が逸る。
車窓から見える風景が工場地帯に変わる頃、ドアの窓に映る自分の髪がぐしゃぐしゃになっていることに気付いた。慌てて手櫛でちょいちょいと押さえつける。
あまりにも感情的になっていたと、改めて冷静に思いつつ、これからやることを整理する。
中玉と小玉をメインにしたプログラムの変更。大玉も少しは残っていた。
頭の中で演出プランを練っている中で、ふいに「もしかして、これも故意によるものではないのか」という疑問が首をもたげた。
爆発で場所をなくして、今度は花火そのものがダメになる。
いくらなんでも、不運続きで片づけるのは都合がよすぎる気がした。
いったいどうして?
故意だとしたら、その人は、なんのために、そんなことをする必要があるのだろうか?
でも、乾燥室の件まで誰かの仕業によるものなら、出入りできる人物は限られている。




