第四話 始まりの街の洗礼と剣聖の切実な願い
鬱蒼とした森を抜け、僕たちの目の前に巨大な石造りの防壁が現れた。
僕たちの異世界での最初の目的地である始まりの街だ。
門をくぐると、武装した衛兵たちが明るい声で僕たちを出迎えてくれた。
「始まりの街へようこそ!」
彼らの歓迎の言葉とは裏腹に、僕たちの顔は一瞬で引きつることになった。
予想はしていたが、この街の文明レベルは想像を絶するほどに低かったのだ。
上下水道という概念が存在しないのか、通りには糞尿が当たり前のように垂れ流されている。
強烈なアンモニア臭と生ゴミの腐敗臭が混ざり合い、呼吸をするだけで気分が悪くなりそうだった。
道端にはいくつかの屋台が出ているが、並んでいるのは原形をとどめていない紫色の肉や、泥にまみれた得体の知れない野菜ばかりだ。
街の住人たちはこれが当たり前であるかのように、気にする素振りも見せずに普通に生活をしている。
「ねえ豪くん、早く宿をとりましょう。」
「こんな場所で立ち止まっていたら、本当に病気になってしまいますわ。」
沙織がハンカチで口元を覆いながら、悲痛な声で訴えかけた。
彼女の顔色は悪く、今にも倒れてしまいそうだった。
由美さんも結衣も霞も、全員が限界に近い表情で頷いている。
だが、勇者である豪は呆れたように肩をすくめた。
「宿に泊まるなんて贅沢だろ。」
「王様から貰った路銀は限られてるんだから、街の隅っこで野宿すれば十分だ。」
その言葉を聞いた瞬間、女性陣の怒りが爆発した。
「ふざけないでよ!」
「こんな汚い地面で寝るくらいなら、魔物と戦っている方がマシだわ!」
結衣が刀の柄に手をかけんばかりの勢いで詰め寄る。
沙織と由美さんも無言の圧力をかけ、霞に至っては軽蔑の眼差しを向けていた。
四人からの猛反発に遭い、さすがの豪もたじろいで一歩後ずさる。
「わ、わかったよ。」
「じゃあ、この街で一番良い宿を探せば文句はないんだろ。」
結局、衛兵や街の人に聞き込みをして、僕たちはこの街で一番評判が良いという宿屋に泊まることになった。
しかし、その宿に一歩足を踏み入れた瞬間、僕たちは再び絶望を味わうことになった。
確かに床や壁の掃除は行き届いているようだったが、建物全体に染み付いたカビと獣の脂のような強烈な臭いが鼻を突く。
通された部屋も一見すると整っているように見えるが、ベッドのシーツにはシミがあり、どうにも清潔とは言い難かった。
それでも、冷たい雨や泥だらけの地面を避けられる屋根があるだけでもマシだと思わなければならない。
僕たちは一人一部屋をあてがわれ、なんとか荷物を下ろすことができた。
問題は、一泊二食付きというこの宿の夕食だった。
食堂に集まった僕たちの前に並べられたのは、石のように固い黒パンと、出汁の味が全くしない塩気だけの野菜スープだった。
メインディッシュとして出されたのは、ゴムのように硬くて塩辛いローストビーフのような謎の肉塊だ。
恰幅の良い宿の女将さんは、これを最高のごちそうだと言って満面の笑みで提供してくれた。
悪気がないのは分かるが、現代日本の豊かな食文化に慣れ親しんだ僕たちにとって、これはもはや罰ゲームでしかない。
みんなは無言でなんとか食事を腹に詰め込んだが、すっかりげんなりして早々に席を立ってしまった。
「まあ、屋根があるだけでもマシだな。」
「明日は冒険者ギルドに行くから早いぞ。」
豪はそう言って、逃げるように自分の部屋へと引っ込んでいった。
一郎もそれに続くようにして食堂を出ていく。
残された僕たちは、支給されたお湯の入ったたらいを見つめてため息をついた。
宿には当然お風呂などなく、この濁ったぬるま湯で体を拭くだけだという。
女性陣の顔には、もう我慢できないという切実な思いが浮かんでいた。
夜になり、僕が自分の部屋で一息ついていると、扉を控えめにノックする音が聞こえた。
扉を開けると、そこには周囲を気にするようにして立つ女性陣の姿があった。
彼女たちは一人、また一人と僕の部屋を訪れては、おずおずとリクエストをしてくる。
「海斗くん、お願いがあるのだけれど……。」
「体を拭くボディーシートと、歯磨きセットを出してもらえないかしら。」
「私は温かいインスタントスープが飲みたいわ。」
「できれば替えの下着と、カロリーメイトみたいな軽食もお願いできないかな。」
僕は微笑んで頷き、【万物配送】のスキルを発動した。
現代日本のドラッグストアやコンビニで買えるような日用品を次々と取り寄せていく。
商品の購入には【EP】を消費するが、それ以上の見返りが僕にはあった。
彼女たちが欲しかった物資を受け取るたびに、心からの笑顔と感謝の言葉を向けてくれるからだ。
その瞬間に振り込まれる莫大な【EP】によって、僕のポイント残高は減るどころかどんどん増え続けている。
女性陣は嬉々として現代の物資を抱え、満足げに自分の部屋へと戻っていった。
深夜。
僕が明日の冒険者ギルドでの立ち回りを考えていると、再び部屋の扉がノックされた。
沙織が何か追加で欲しいものでも思い出したのだろうか。
そう思いながら扉を開けると、そこには意外な人物が立っていた。
剣道部主将であり、剣聖のスキルを持つ剣崎結衣だった。
「海斗くん、夜分にごめんなさい。」
「相談があるのだけど、少しだけ中に入れてくれる?」
結衣はどこか照れくさそうにモジモジとしている。
「ああ、いいよ。」
「どうしたの?」
僕が彼女を部屋の中に招き入れると、ふわりと良い香りが漂ってきた。
先ほど僕が渡したボディーシートやシャンプーを使ったらしく、微かに女の子らしい石鹸の香りがする。
いつも凛々しい彼女が、少しだけ潤んだ瞳で僕を見つめてきた。
「あのね、食事についてなんだけど……。」
「私、お風呂とか寝る場所はなんとか我慢できるの。」
「でも、食べ物だけはちゃんとしたものが食べたいのよ。」
結衣の言葉には、切実な思いが込められていた。
彼女は堰を切ったように、人一倍食べることが好きなこと、そして毎日の温かい家庭料理が自分の元気の源であることを熱く早口で語り始めた。
「今日のあの固いパンと塩辛いお肉、本当に辛かったわ。」
「美味しいお米とお味噌汁があれば、魔物だって何百匹でも倒せるのに……。」
「私、このままじゃ戦う前に餓死しちゃうかもしれない。」
彼女の悲痛な訴えを聞いて、僕は大きく頷いた。
確かに、食事は生命活動の基本であり、精神的な安定にも直結する。
特に身体を動かす前衛の彼女にとって、あの粗末な食事では力が出ないのも当然だ。
「わかったよ。」
「明日から、みんなの食事についても改善できるように僕が考えるよ。」
僕が約束すると、結衣の顔がパァッと明るくなった。
「本当?」
「海斗くん、ありがとう!」
「今はとりあえず、これで我慢して?」
僕は【万物配送】のインベントリから、真空パックになっている市販の「だし巻き卵」を取り出して彼女に手渡した。
ほんのりと出汁の香りが漂う、日本の家庭料理の定番だ。
「これ、だし巻き卵……っ!」
「あ、ありがとう!」
結衣はだし巻き卵を受け取ると、感極まったように僕の胸に飛び込んできた。
力強い抱擁と共に、彼女の柔らかい身体の感触と良い香りが僕を包み込む。
「ご、ごめんなさい!」
自分の行動にハッと気づいた結衣は、顔を真っ赤にして勢いよく僕から離れた。
彼女はだし巻き卵を大事そうに抱き抱えると、逃げるようにして僕の部屋を飛び出していった。
嵐のように去っていった彼女の背中を見送りながら、僕は静かに扉を閉めた。
「食事か……。」
確かに、この過酷な異世界サバイバルにおいて、食事の改善は最優先事項かもしれない。
僕は部屋のベッドに腰掛け、【万物配送】のウィンドウを虚空に呼び出した。
美味しいご飯を炊くためのカセットコンロやメスティン、そして温かいレトルト食品。
仲間たちの胃袋を掴み、さらに快適な環境を提供するためには何が必要か。
僕はズラリと並ぶ現代日本の商品を眺めながら、次なる物流革命の計画を練り始めるのだった。




