第一話 冷たい雨と終わっているインフラ、そして奇跡の配達
王城を出発して三日目。
僕たちは早くもこの異世界の過酷な洗礼を受けていた。
空は重く鉛色の雲に覆われ、容赦のない冷たい雨が僕たちの体温を奪っていく。
舗装されていない街道は完全に泥濘と化しており、一歩足を踏み出すたびに靴が重く沈み込んだ。
馬車を手配する資金など王家からは支給されておらず、僕たちはひたすら徒歩で魔王城を目指さなければならない。
先頭を歩く勇者である豪田豪は、聖剣の力なのか疲れた様子を見せずにズンズンと進んでいく。
だがその後ろを歩く仲間たちは限界に近かった。
特にクラス委員長であり聖女の称号を得た神宮寺沙織は、今にも倒れそうなほどに憔悴しきっている。
彼女の純白だったローブは跳ね上がった泥で茶色く汚れ、水を吸って鉛のように重くなっていた。
美しい黒髪も雨と泥でベタつき、額に張り付いている。
「ねえ豪くん、そろそろ雨宿りできる場所を探さない?」
「こんな雨の中でずっと歩き続けるなんて無理よ。」
沙織が震える声で豪に懇願した。
だが豪は立ち止まることもなく鼻で笑うだけだった。
「甘ったれたこと言ってんじゃねえよ。」
「俺たちは魔王を倒すために修行してんだ。」
「この程度の雨で泣き言を言ってたら世界なんて救えねえぞ。」
豪の脳筋すぎる言葉に沙織は絶望的な表情を浮かべた。
現代日本で財閥の令嬢として育った彼女にとって、この不衛生な環境は肉体的な疲労以上に精神を削り取る拷問だ。
お風呂はおろか、温かいシャワーも存在しない。
トイレすら街道沿いの茂みで済ませるしかないという初期ヨーロッパレベルの終わっているインフラだった。
極度の潔癖症である沙織の精神はすでに崩壊寸前まで追い詰められている。
「おい沙織、便所ならそこの茂みでしてこいよ。」
「誰も見ねえからさっさと終わらせろ。」
「体拭きたけりゃその辺の葉っぱでも使えばいいだろ。」
豪から投げられたのはあまりにもデリカシーに欠ける心無い言葉だった。
その言葉に沙織の肩がビクッと跳ねる。
泥だらけの茂みに腰を下ろし、ゴワゴワの葉で肌を拭う屈辱。
彼女はギュッと唇を噛み締め、俯いたまま何も言い返すことができなかった。
豪の取り巻きである一郎もニヤニヤと笑っているだけで誰も彼女を庇おうとはしない。
僕は最後尾を歩きながらその様子を静かに観察していた。
夕闇が迫り、ついに僕たちは森の中で野営をすることになった。
冷たい雨は降り続き、粗末な布を張っただけの簡易テントでは風も雨も防ぎきれない。
食事は石のように硬い干し肉と、皮袋に入れた泥臭い川の水だけだった。
豪たちは文句を言いながらも疲労からすぐに鼾をかいて眠りについた。
だが沙織は眠れるはずがなかった。
僕は自分のテントから抜け出し、気配を殺して沙織のテントへと近づいた。
中からは微かにすすり泣く声が聞こえてくる。
僕はそっとテントの入り口を開けた。
「……うぅ……いやだ……もう嫌……。」
「汚い……わたくしの体、泥と汗で……。」
沙織は膝を抱え、ガタガタと震えながら泣いていた。
彼女の手にはハンカチが握られているが、それで泥を拭き取ろうとしても冷たい雨水ではどうにもならない。
尊厳を打ち砕かれ、心細さと寒さで泣きじゃくる彼女の姿は痛々しかった。
「神宮寺さん、大丈夫?」
僕が声をかけると、沙織はビクッと体を震わせて顔を上げた。
「相田、くん……。」
「ごめんなさい、こんな無様なところを見せてしまって……。」
彼女は慌てて涙を拭おうとするが、その手も泥で汚れている。
「無理しないで。」
「君はもう十分に頑張っているよ。」
僕は彼女の傍にしゃがみ込み、ゆっくりと語りかけた。
彼女の瞳には警戒心よりも、誰かにすがりつきたいという弱々しい色が浮かんでいた。
実は今日の昼間、僕は街道で立ち往生している行商人の荷車を見かけていた。
車輪が泥にはまって動けなくなっていた彼らを、僕は一人で手伝って助け出したのだ。
その時、行商人から心からの感謝をされ、僕のステータスウィンドウにポイントが振り込まれた。
それが【EP】の初獲得だった。
誰かを助け、感謝されることで蓄積するそのポイントを使って、僕はすでに準備を整えていたのだ。
「神宮寺さん、僕のスキルは戦うためのものじゃない。」
「でも、君をこの不潔な環境から救うことはできるんだ。」
僕は虚空に向けて手をかざし、スキルを発動した。
「【万物配送】、展開。」
僕の言葉と共に、暗い森の中に淡い光の粒子が集束していく。
次の瞬間、沙織の目の前に信じられないものが出現した。
それは強化プラスチックと断熱材で構成された、現代日本の仮設シャワールームだった。
さらにその横には、ポータブル電源に繋がれたセラミックヒーターと、ふかふかの特大バスタオルが置かれている。
「え……?」
「な、なにこれ……ここは、異世界なのに……?」
沙織は目を丸くして、目の前の光景と僕を交互に見た。
「これが僕のスキルだよ。」
「【EP】っていう、人助けや感謝で貯まるポイントを使って、現代の物資を取り寄せることができるんだ。」
「さっき、困っている人を助けてポイントを稼いできたからね。」
僕はセラミックヒーターのスイッチを入れ、シャワールームの扉を開けた。
中からは温かい湯気が立ち上り、ラベンダーの香りのするボディソープが用意されている。
冷たい雨と泥にまみれたこの世界で、そこだけが完全に切り離された清潔なオアシスだった。
「温かいお湯が出るよ。」
「これで泥も汗も全部洗い流して。」
「着替えの下着も新品を用意しておいたから。」
僕が優しく促すと、沙織の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
それは悲しみの涙ではなく、極限状態から救済されたことへの安堵と感激の涙だった。
「相田くん……ありがとう……本当に、ありがとう……ッ。」
彼女は僕の手を両手で強く握り締め、何度も何度も頭を下げた。
「いいんだ。」
「僕は君が笑顔でいてくれる方が嬉しいから。」
「ゆっくり温まっておいで。」
僕は微笑んで彼女をシャワールームへと送り出した。
扉が閉まり、中からシャワーのお湯が勢いよく流れる音が聞こえてくる。
彼女が泥を洗い流し、本来の美しさを取り戻していくのを想像しながら、僕は見張りに立った。
ピロン。
僕の脳内にシステム音が響いた。
【対象:神宮寺沙織からの極大の感謝を検出しました】
【EPが大量に振り込まれました】
ウィンドウを確認すると、行商人を助けた時の何十倍ものポイントが加算されていた。
極限状態からの救済が、これほどまでに強い感情を生み出すとは予想以上だった。
これでまた、新しい物資を調達することができる。
三十分後。
シャワールームの扉が開き、湯気と共に沙織が出てきた。
泥にまみれていた姿はどこへやら、彼女の黒髪は艶やかに輝き、肌は抜けるように白く潤っている。
洗いたての清潔な香りが、冷たい雨の匂いを打ち消した。
「海斗、くん……。」
彼女は僕の顔を見ると、頬をほんのりと赤らめて上目遣いで微笑んだ。
いつの間にか呼び方が苗字から名前に変わっている。
その瞳には、かつてのクラス委員長としてのプライドは消え去り、僕に対する絶対的な信頼と甘い依存の色がはっきりと宿っていた。
「わたくし……もう、海斗くんなしでは生きていけませんわ。」
聖女の堕落にして、僕の誠実な物流事業の初めての成功だった。
勇者が冷たい泥水の中で鼾をかいている間に、僕は彼女の心を完全に掌握したのだ。
だが、この異世界の不便さに苦しんでいるのは沙織だけではない。
僕たちの物流革命は、まだ始まったばかりだった。




