第九話 保湿クリームの奇跡と瘴気を祓う風
淀んだ紫色の瘴気に覆われたエルフの森の入り口で、僕はキャンピングカーのブレーキを踏んだ。
目の前には、パサパサに傷んだ金髪を抱え、涙目でヒステリーを起こしているエルフの少女がいる。
彼女は突如として現れた漆黒の巨大な鉄の塊であるキャンピングカーに気づき、ハッと息を呑んだ。
「な、なんじゃお主らは!」
彼女は警戒心を剥き出しにして、手にした杖をキャンピングカーへと向ける。
震える手からは、いつでも魔法を放てるように緑色の魔力が漏れ出していた。
僕は両手を軽く挙げて敵意がないことを示しながら、ゆっくりと運転席から降りた。
「怪しい者じゃないよ。」
「僕は相田海斗、こっちは仲間の……。」
「……って、今はそれどころじゃないか。」
僕は彼女の酷く乾燥した肌と、本来なら美しいはずの金糸のような髪が瘴気でボロボロになっているのを見た。
エルフにとって美しさは魔力のバロメーターであり、命そのものだとギルドマスターから聞いていた。
それがここまで損なわれているのだから、彼女が取り乱すのも無理はない。
僕は【EP】を消費し、【万物配送】のスキルを密かに発動した。
ポケットの中に現れたのは、現代日本の最先端技術が詰まった最高級の保湿クリームと導入美容液だ。
「これ、よかったら使ってみて。」
「荒れた肌をすぐに治せる薬だよ。」
僕が小さな容器を差し出すと、彼女はビクッと肩を揺らして一歩後ずさった。
「人間が差し出す得体の知れない薬など、塗れるわけがなかろう!」
「わらわは森の守護者、エルフの姫セラフィナぞ!」
「そんないかにも怪しい泥のようなものを……。」
「怪しいものではありませんわ。」
僕の背後から、純白のローブを揺らして沙織が歩み出た。
彼女の肌はキャンピングカーでの快適な旅と毎日のスキンケアによって、真珠のように白く輝いている。
同じ女性として、そしてかつて不衛生な環境で尊厳を失いかけた者として、沙織はセラフィナの痛みが痛いほど理解できたのだろう。
「わたくしも最初は、この世界特有の不潔な環境に絶望していましたの。」
「でも、海斗くんがくれたこのクリームのおかげで、こうして潤いを保つことができていますわ。」
沙織は僕の手から保湿クリームを受け取ると、自分の手の甲に少しだけ取り出した。
そして、セラフィナの目の前でゆっくりと肌に伸ばしていく。
クリームが肌にスッと馴染み、潤いのヴェールを作ってツヤツヤと輝く様子を、セラフィナは食い入るように見つめた。
「ほら、とても良い香りがするでしょう?」
「騙されたと思って、少しだけ試してみてくださいな。」
沙織の慈愛に満ちた微笑みと、説得力のある美しい肌の輝きに、セラフィナの杖を下ろす手が少しずつ緩んでいった。
セラフィナは恐る恐る手を伸ばし、沙織の指先からクリームを少しだけ掬い取る。
そして、カサカサにひび割れた自分の頬へと、そっと塗布した。
「……っ!」
セラフィナの緑色の瞳が、驚愕に見開かれた。
現代のナノテクノロジーによって微細化された美容成分が、乾ききったエルフの肌の奥深くまで瞬時に浸透していく。
先ほどまで粉を吹いていた頬が、まるで水を吸い込んだスポンジのようにふっくらと潤いを取り戻したのだ。
「な、なんじゃこれは……!」
「肌が……わらわの肌が、水を飲んでおる……!」
セラフィナは震える手で、もう一度クリームを掬い、今度は顔全体にたっぷりと塗り込んだ。
さらに僕が手渡したヘアオイルを髪に馴染ませると、パサパサだった金髪が一瞬にして艶やかな天使の輪を取り戻す。
「うそ……嘘じゃ……。」
「あんなに、あんなに何をしても治らなかったのに……っ。」
セラフィナは両手で自分の頬を包み込み、潤いを取り戻した肌の感触を確かめながら大粒の涙をこぼした。
高慢だった態度は完全に消え去り、そこにあるのは美貌を取り戻して安堵する一人の少女の姿だけだった。
彼女は僕の前にへたり込み、すがるように僕の服の裾を掴んだ。
「海斗、と言ったな……。」
「そなたは美の神か……!」
「お願いじゃ、わらわをもっと綺麗にしてくれ……っ!」
完全に警戒を解き、僕に依存するような視線を向けてくるセラフィナ。
彼女のトラウマを解決したことで、僕の脳内には莫大な【EP】が雪崩れ込んできた。
エルフの姫からの極大の感謝は、これまでのどのポイントよりも大きな数値を弾き出している。
「もちろん、いくらでも手入れしてあげるよ。」
「でも、まずはこの森の瘴気をなんとかしないと、また元通りになっちゃうよ?」
僕が根本的な問題を指摘すると、セラフィナはハッとして周囲の淀んだ空気を見回した。
「そ、そうなのじゃ……。」
「魔王軍が放った呪いの瘴気が、森の結界を侵食しておる。」
「わらわの力だけでは、もう浄化が追いつかなくて……。」
彼女が悲痛な声で森の窮状を訴える。
僕はキャンピングカーを振り返り、由美さんたちに目配せをした。
この巨大な動く拠点は、単なる居住空間ではない。
強力なジェネレーターを積んだ、最強のインフラ供給基地でもあるのだ。
「任せてよ。」
「君の肌を治したのと同じように、この森の空気も綺麗にしてみせるから。」
僕は再び【万物配送】のウィンドウを展開した。
新たに獲得した莫大な【EP】を惜しみなく消費する。
呼び出したのは、現代の工場や大型施設で使われる強力な『業務用大型空気清浄機』を複数台だ。
HEPAフィルターとプラズマクラスター技術を搭載したその巨大な箱型の機械を、キャンピングカーの外部電源に接続する。
「スイッチ、入れるよ。」
僕が電源を入れると、ヴンッという重低音と共に大型ファンが一斉に回転を始めた。
周囲に漂う紫色の瘴気が、恐ろしい勢いで機械の吸気口へと吸い込まれていく。
そして排気口からは、不純物を完全に濾過された清浄な空気がマイナスイオンと共に勢いよく吹き出した。
「な……なんという魔法じゃ……!」
「詠唱もなしに、これほどの浄化を……!」
セラフィナが腰を抜かし、信じられないものを見るような目で空気清浄機を見上げている。
ほんの数分で、キャンピングカーの周囲を覆っていた紫色の霧が晴れ、美しい森の緑と澄み切った空気が戻ってきたのだ。
「すごいわ、海斗くん!」
「これで森の中にも入れるわね!」
結衣が澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら歓声を上げる。
僕はセラフィナに向かって優しく手を差し伸べた。
「さあ、案内してくれるかな。」
「森の奥まで、僕たちが全部綺麗にしてあげるから。」
セラフィナは僕の手をしっかりと握り返し、尊敬と熱を帯びた瞳で僕を見つめ返した。
彼女の心は、すでに僕の提供する現代文明の力に完全に魅了されている。
エルフの森への侵入ルートは、こうして拍子抜けするほどあっさりと開かれたのだ。
だが、森の奥深くにはまだ見ぬ脅威と、僕たちの物流革命をさらに加速させる新たな出会いが待っているはずだった。




