5章の15
「無駄だよ!」
千景は左手首に巻かれていた包帯を引きちぎった。
下にあった傷が露わになる。それを認めた更紗の足が、ぴたりと止まった。
明らかに、人為的に付けた切り傷。――――否。
彼女の手首はほとんど割れていた。縫合されてはいるが、傷は骨が見えそうなくらいに深い。
千景はそのつなぎ目に指を突っ込んだ。一瞬、顔を歪める。
しかし彼女に躊躇は無かった。そこから一気に、裂傷を掻き裂いた。
「っあああっっ!」
悲鳴がこぼれた。同時、彼女の左手首から一挙に血液があふれ出した。
千景!?
はっ、と晴道は思い出す。
千景は、一之瀬が接触してきた時〝やりすぎて〟倒れたと言っていた。
その時も自分の血液を使ったのだ。今のように手首を切り裂き、流れ出た血液に血球振動を作用させて。
倒れたのはきっと、出血多量のせいだ。彼女の傷はそう察するに難くない深さだった。
そして今。
手首からぼたぼたとこぼれ落ちる血液を、千景は右手で受け止めた。掌から溢れた血液が、彼女の腕や、足や、足元の芝生に伝う。
出血の量は尋常ではない。辛いのだろう、千景は足をふらつかせた。
「っつ……ぅ……さぁ、これで……最後だよ」
歪んだ顔は、不可解なまでに凛々しさを残している。
あの量を爆発させるつもりなのか。
晴道は呆然と立ち尽くしたまま、目の前に溢れ出る深紅を眺めた。
一歩出ていた更紗が、じりじりと後退する。
「……誘爆で死ぬぞ」
絞り出すように、更紗は呟いた。
ドキリ、と晴道の心臓が疼いた。
千景は全身に血液を纏っている。この状態で血球振動を使えば、彼女の周りの血液も爆発してしまうはずだ。
今の千景に、どれほど突然変異を制御する理性が残っているかわからない。傷つけない、どころか、この場にいる全員が命を失うかもしれない。
「……っ」
晴道は唇を引き結んだ。
遅すぎるくらいに遅すぎる出番だ。
「千景!」
手にした銃を持ち上げた。
抑えるべき突然変異は、血球振動。今、この場にある突然変異はこれ一つしかない。照準器を使わなくても弊害は生じないはずだ。
だが、この行動には意図があった。
全力で止めたいんだ。
俺の突然変異の全てを、千景にぶつけたい。そうしないと、今の千景の突然変異は完封できないかもしれない。
だから俺は断罪銃を撃つ。
金色の銃口の向こうに、血液にまみれた少女の姿を捉えた。
「沖田くん?」
千景はこちらを向いた。瞬間、瞳が驚愕に震える。
彼女の右手からは既に、大量の血液が頭を擡げかけている。
あれは千景の思い。
何かを叫ぶ千景を見据えながら、晴道は静かに認識した。
一呼吸。その短い時間に、標的の思いを砕く覚悟を。
誰も殺したくない。
千景と共に幾度も唱えた思いを、晴道はもう一度なぞった。
二呼吸。そのわずかな時間に、自分の思いを貫く決意を。
そんなの、とっくに出来てる。
「消え去れ、血球振動」
晴道は断罪銃の引き金を引いた。
その瞬間、自分の細胞の呼応を感じた。
「!」
引き絞った引き金は何の手ごたえも与えなかった。銃声も鳴らなかった。
代わりに、見えない何かが全身の細胞から湧出し、腕を流れ、断罪銃の銃口から発射されたのを、確かに感じた。
これがルナ――!!
変異種の発現する、異常な生体現象の元となる力。突然変異遺伝子から作られる特殊なRNAが帯びる生体エネルギー。
断罪銃という照準器の銃口から発射されたそれが、千景に命中したのは明らかだった。
「っ!?」
千景の身体がびくりと震えた。
まるで見えない縄に縛られているように両腕を身体に引き付け、苦しげに空へと喘いだ。
「あああっ!!」
ばしゃん、と、滞空していた血液が地に落ちる。深紅の液体は跳ね、そして芝生の地にしみ込んだ。




