4章の1
次に訪れたのは、黄昏という時間。
白い輝きを捨てた太陽が、深い紅色を引きずりながら落ちた水平線。いまだ残存するかの色彩が、空と、海と、夏の空気を同じ色に染めている。
その収束を待たないまま、東の空には早くも夜闇が気配を見せ始めている。
断続的に海風が吹きつける埠頭。
風と共に運ばれた夕刻の名残が、埠頭を歩む青年の横顔を深紅に照らす。
彼は笑っていなかった。
冷たい目で〝それら〟の姿を認めつつ、ゆっくりと前進していた。
体のほとんどを包む白衣は、吹き付ける海風に煽られはためいていた。
元から小さかった靴音が、完全に止む。
視線の的は一時も揺るがなかった。立ち止まった今も、彼はそれらを見つめていた。
無言だ、彼は。
後ろ手に手を組み、まるで物の価値を見定めるかのごとく、そしてそれに相応な瞳で、彼はそれらを見つめている。
結論は迅速に弾き出された。
同じ場所で一時前、黒服の少女が同じように思考していた時間より、遥かに短かった。
白衣の青年は笑った。変わらず冷たい瞳で。
その時、彼の笑みに誘われたように、〝それ〟が口を利いた。
「……室長」
それは人間だった。香田という名の、俊足の遺伝子を持つ変異種。
仰向けに倒れたまま、起き上がる素振りも見せない。当然だ。彼女の両足は膝の上の辺りでへし折られている。
上半身さえ、身じろぎ一つしない。体のどこを動かすのも辛いのだろう。言葉を発す唇も、発音を区切るために最低限の動きしか見せない。
そして、瞳。
彼女はずっと一点を見つめている。
笑みだ。
青年は笑んでいる。そして、彼女の懺悔を受ける。
「申しわけ……ありません。……私と高柳共々……無様な姿を晒して……」
彼女の体の下には、うつ伏せに倒れている男がいる。彼の体はぴくりとも動かない。
「室長……奴らは既に離島したかと…………本当に……申し訳ありません」
表情の乏しい懺悔だった。しかし彼女が心の奥底から悔い、詫びていることは、切れ切れの言葉から感じ取れた。
しかし既に、結論は導かれていた。
「肝臓の右葉を採っておいて。屠体は廃棄だ」
「……は?」
青年の発した脈絡の無い言葉に、香田はぽかんと唇を開いた。
もっとも、脈絡が無かったのは彼女にとってだけで、
「はい、創造者」
相応の返事が返されたのを確認すると、青年はくるりと背を返した。もう用事は完了した、という風に。
「しっ、室長!?」
彼女は表情に、初めて動揺という色を露わにした。同じく切迫の滲み出た声音が、既に歩み始めていた青年の足を引き止めた。
彼は振り返る。そして、おもむろに説明する。
「突然変異解析の細胞生検には、新陳代謝の活発な肝臓の組織を採取するのが常識なんだよ。研究に直接関わらなかったキミには新鮮な情報だったかな」
「それが……っ」
「キミの突然変異〝俊足〟の解析は今回のサンプル分で完了する。高柳君の〝視覚解析〟もね。随分時間が掛かったけれど、これが最後のサンプリングだよ」
医師が患者に説明するような口調だった。
香田は唖然とそれを聞いた。分かったような、しかし真意は掴めないような表情で。
いや――
むしろ真意に怯え知らぬふりをしているようだ、と形容する方が正しいのかもしれない。
香田は縋るような瞳で、白衣の青年を仰ぎ見た。
彼はそんな彼女に構わず続けた。
「研究が終わってしまえば、もう提供者は必要無い。それに僕の興味は既に、あの二人に向いていてね」
「……」
「キミたちが独自の判断で公安と戦ってくれたのは嬉しいよ。でも、それを労うのは僕の仕事じゃないな」
そう言うと、青年は白衣の裾を翻した。
「っ!」
香田はとっさに身を起こそうとした。
しかし、両足から走った激痛がそれ以上の行動を阻んだ。
「ぅあぐっ…………っ室長! 久澄室長っ!?」
それでも彼女は彼の名を絞り出した。
激しく歪んだ彼女の顔に、しかし青年の瞳が向けられることはなかった。
「屠体に未練がある研究者はなかなかいないものでね。無論、僕も全く無い」
何の感情も無く発せられた言葉が、香田の頭をしたたかに殴りつけた。
埠頭に足音が響き始めた。
香田の視界から白衣が消える。背景だった黄昏の空が全面を覆い尽くす。
と、
「提供者、肝臓の右葉を回収します」
唐突に、短いセリフが差しこまれた。それに続いて、視界が一人の人物を迎え入れた。
否、ヒトではなかった。
看護師の見た目をしたリコンビナント。こんな雰囲気の中でも、看護師が患者に安堵を促すように優しく微笑んでいる。
手にはステンレスのトレイを抱えている。リコンビナントはトレイを傍らに置き、その中にあった器具を取り出した。
それが一瞬視界に躍るも、香田にはそれが何なのか視認できなかった。側方から差す深紅の残光が、あまりに眩く反射されたからだ。
香田は反射的に目をつむった。
目を刺した激しい光。足の激痛とも合わせて頭がくらんだ。
「回収します」
リコンビナントは再度言い、手にした器具をおもむろに、しかし正しい使用法で使った。
香田の悲鳴が空気をつんざいた。
白衣の青年は背中でそれを聞いた。
彼は笑っていなかった。冷酷な横顔に漆黒の影を落としながら、埠頭をゆっくりと歩み続けた。
人でなくなったモノが自分の名を叫んだように感じた。
彼はまばたきすら返さなかった。
埠頭に静寂が戻るまで、それほど長くはかからなかった。




