表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/68

4章の1

 次に訪れたのは、黄昏という時間。

 白い輝きを捨てた太陽が、深い紅色を引きずりながら落ちた水平線。いまだ残存するかの色彩が、空と、海と、夏の空気を同じ色に染めている。

 その収束を待たないまま、東の空には早くも夜闇が気配を見せ始めている。

 断続的に海風が吹きつける埠頭。

 風と共に運ばれた夕刻の名残が、埠頭を歩む青年の横顔を深紅に照らす。

 彼は笑っていなかった。

 冷たい目で〝それら〟の姿を認めつつ、ゆっくりと前進していた。

 体のほとんどを包む白衣は、吹き付ける海風に煽られはためいていた。

 元から小さかった靴音が、完全に止む。

 視線の的は一時も揺るがなかった。立ち止まった今も、彼はそれらを見つめていた。

 無言だ、彼は。

 後ろ手に手を組み、まるで物の価値を見定めるかのごとく、そしてそれに相応な瞳で、彼はそれらを見つめている。

 結論は迅速に弾き出された。

 同じ場所で一時前、黒服の少女が同じように思考していた時間より、遥かに短かった。

 白衣の青年は笑った。変わらず冷たい瞳で。

 その時、彼の笑みに誘われたように、〝それ〟が口を利いた。

「……室長」

 それは人間だった。香田という名の、俊足の遺伝子を持つ変異種。

 仰向けに倒れたまま、起き上がる素振りも見せない。当然だ。彼女の両足は膝の上の辺りでへし折られている。

 上半身さえ、身じろぎ一つしない。体のどこを動かすのも辛いのだろう。言葉を発す唇も、発音を区切るために最低限の動きしか見せない。

 そして、瞳。

 彼女はずっと一点を見つめている。

 笑みだ。

 青年は笑んでいる。そして、彼女の懺悔を受ける。

「申しわけ……ありません。……私と高柳共々……無様な姿を晒して……」

 彼女の体の下には、うつ伏せに倒れている男がいる。彼の体はぴくりとも動かない。

「室長……奴らは既に離島したかと…………本当に……申し訳ありません」

 表情の乏しい懺悔だった。しかし彼女が心の奥底から悔い、詫びていることは、切れ切れの言葉から感じ取れた。

 しかし既に、結論は導かれていた。

「肝臓の右葉を採っておいて。屠体は廃棄だ」

「……は?」

 青年の発した脈絡の無い言葉に、香田はぽかんと唇を開いた。

 もっとも、脈絡が無かったのは彼女にとってだけで、

「はい、創造者クリエイター

 相応の返事が返されたのを確認すると、青年はくるりと背を返した。もう用事は完了した、という風に。

「しっ、室長!?」

 彼女は表情に、初めて動揺という色を露わにした。同じく切迫の滲み出た声音が、既に歩み始めていた青年の足を引き止めた。

 彼は振り返る。そして、おもむろに説明する。

「突然変異解析の細胞生検には、新陳代謝の活発な肝臓の組織を採取するのが常識なんだよ。研究に直接関わらなかったキミには新鮮な情報だったかな」

「それが……っ」

「キミの突然変異〝俊足〟の解析は今回のサンプル分で完了する。高柳君の〝視覚解析〟もね。随分時間が掛かったけれど、これが最後のサンプリングだよ」

 医師が患者に説明するような口調だった。

 香田は唖然とそれを聞いた。分かったような、しかし真意は掴めないような表情で。

 いや――

 むしろ真意に怯え知らぬふりをしているようだ、と形容する方が正しいのかもしれない。

 香田は縋るような瞳で、白衣の青年を仰ぎ見た。

 彼はそんな彼女に構わず続けた。

「研究が終わってしまえば、もう提供者は必要無い。それに僕の興味は既に、あの二人に向いていてね」

「……」

「キミたちが独自の判断で公安と戦ってくれたのは嬉しいよ。でも、それを労うのは僕の仕事じゃないな」

 そう言うと、青年は白衣の裾を翻した。

「っ!」

 香田はとっさに身を起こそうとした。

 しかし、両足から走った激痛がそれ以上の行動を阻んだ。

「ぅあぐっ…………っ室長! 久澄室長っ!?」

 それでも彼女は彼の名を絞り出した。

 激しく歪んだ彼女の顔に、しかし青年の瞳が向けられることはなかった。

「屠体に未練がある研究者はなかなかいないものでね。無論、僕も全く無い」

 何の感情も無く発せられた言葉が、香田の頭をしたたかに殴りつけた。

 埠頭に足音が響き始めた。

 香田の視界から白衣が消える。背景だった黄昏の空が全面を覆い尽くす。

 と、

「提供者、肝臓の右葉を回収します」

 唐突に、短いセリフが差しこまれた。それに続いて、視界が一人の人物を迎え入れた。

 否、ヒトではなかった。

 看護師の見た目をしたリコンビナント。こんな雰囲気の中でも、看護師が患者に安堵を促すように優しく微笑んでいる。

 手にはステンレスのトレイを抱えている。リコンビナントはトレイを傍らに置き、その中にあった器具を取り出した。

 それが一瞬視界に躍るも、香田にはそれが何なのか視認できなかった。側方から差す深紅の残光が、あまりに眩く反射されたからだ。

 香田は反射的に目をつむった。

 目を刺した激しい光。足の激痛とも合わせて頭がくらんだ。

「回収します」

 リコンビナントは再度言い、手にした器具をおもむろに、しかし正しい使用法で使った。

 香田の悲鳴が空気をつんざいた。

 白衣の青年は背中でそれを聞いた。

 彼は笑っていなかった。冷酷な横顔に漆黒の影を落としながら、埠頭をゆっくりと歩み続けた。

 人でなくなったモノが自分の名を叫んだように感じた。

 彼はまばたきすら返さなかった。


 埠頭に静寂が戻るまで、それほど長くはかからなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ