第9話:屋根の上の星空
遠く離れた王宮がどれほどの怒号と混乱に包まれていようとも、名もなき森には関係のないことだった。
ここにあるのは、ただ静かに降り積もる雪と、冬の森を吹き抜ける風の音だけ。
日中、ルーファスが頑固なまでに「屋根が痛む」と主張して雪下ろしと補修をしてくれたおかげで、古い石造りの小屋は、冬の寒気をものともせず暖かさを保っていた。
夜も更けた頃。
ぴたりと風が止み、鉛色だった空の雲が綺麗に払い落とされた。
ふと庭へ出ると、夜空には息を呑むほどの星が散らばっていた。
澄み切った冷気の中で瞬く星々は、まるで天から降り注ぎそうなほど近く、地上を覆う白い雪原を青白く照らし出している。
見上げると、小屋の屋根の上に、ひとり腰掛けている大男の影があった。
「……ルーファスさん?」
私が呼びかけると、屋根の上の影がふと視線を落とした。
夜の闇に溶け込むような黒髪と、星明かりを反射して紫水晶のように輝く瞳。
「コリンナか。……こんな時間まで起きていたのか」
「それはこちらの台詞です。補修は夕方に終わったはずでしょう? そんなところにいたら、またお身体が冷えてしまいます」
「風が止んだからな。……ここは、空が近い」
ルーファスはそう言って、屋根の端に掛けられた木製の梯子を顎で示した。
「登ってこられるか」
少し躊躇したけれど、彼が嘘偽りのない穏やかな顔で手招きしているのを見て、私は小屋に戻り、厚手の羊毛の毛布を一枚抱えて外へ出た。
木製の梯子を一段ずつ慎重に登る。
屋根の縁に手をかけた瞬間、ルーファスの逞しい腕が私の手首を掴み、ふわりと軽々と屋根の上へと引き上げてくれた。
「わっ……ありがとうございます」
滑らないように平らな石積みの部分に腰を下ろすと、ルーファスが私の隣に腰掛けた。
肩が触れ合うほどの距離。
私は抱えてきた大きな毛布を広げ、彼の広い背中ごと二人ですっぽりと包み込んだ。
「……毛布を分け合うのか」
「一人で温まるには大きすぎますし、あなたに風邪を引かれたら困りますから。……ほら、肩を入れてください」
「ああ……」
少し照れくさそうにしながらも、ルーファスは毛布の端を引き寄せ、私の肩にそっと寄せた。
厚手の毛布の狭い空間に、二人の体温が閉じ込められる。
吐き出す白い息が重なり合って、星空へと消えていった。
庭の雪の上では、オニキスが丸くなって静かな寝息を立てている。
巨大な竜の背中に薄っすらと積もった雪が、星明かりを受けてダイヤモンドのように煌めいていた。
「……綺麗ですね」
「ああ。戦場で見ていた星とは、まるで別物だ」
ルーファスは膝を抱え、遠くの銀河を見つめながら、静かに口を開いた。
「あの頃は、夜空を見上げる暇さえなかった。いつ敵の夜襲があるか、いつ背後から味方に刺されるか……夜はただ、血と泥の匂いが凍りつくだけの時間だった」
低く、どこか遠い場所を懐かしむような声音。
けれど、以前のような自嘲や絶望の鋭さは、もうそこにはなかった。
「コリンナ」
「はい」
「俺はあの日……あの嵐の夜、死に場所を探してこの森へ落ちた」
ルーファスが、私の方へと視線を向けた。
深く澄んだ紫紺の瞳が、至近距離で私を真っ直ぐに見つめている。
「オニキスを道連れにして、誰の記憶にも残らず、ただの兵器の残骸として朽ち果てるつもりだった。それが、俺にできる唯一の抗いだと信じていたからだ。……だが」
ルーファスは毛布の中から手袋を外した手を取り出し、屋根の上に置かれた私の冷えた指先の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。
ゴツゴツとした、温かい重み。
「お前が俺の手を引き、泥を拭い、名前も聞かずにスープを飲ませてくれた。……あたたかい飯を食い、薪を割り、お前が笑うのを見ているうちに……俺の中で、何かが音を立てて変わっていったんだ」
「ルーファスさん……」
「俺は、生まれて初めて……明日の朝が来るのを、楽しみに待つようになった」
ルーファスの声が、かすかに震えていた。
「明日もお前の淹れてくれた茶の匂いで目を覚ましたい。お前が作った不格好なパンを食いたい。お前が寒そうにしていれば、山へ行って一番いい薪を割ってきたい。……そうやって、ただの男として、お前の隣で生きていたいと……願ってしまったんだ」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
言葉が、出なかった。
十年間、私は「誰かのため」に役目を演じ続けてきた。
誰の記憶にも残らず、誰からも愛されず、舞台から静かに消え去ることだけを、自分の終着点だと定めていた。
自分という人間に、誰かの生きる理由になる価値があるだなんて、一度も考えたことすらなかった。
「……私で、いいのですか」
震える私の問いに、ルーファスは迷わず首を横に振った。
「お前がいいんじゃない。お前でなければ、駄目なんだ」
重ねられた彼の手が、私の指をきゅっと握りしめた。
痛いほど真っ直ぐな力が、指先から胸の奥へと伝わってくる。
「国も、名誉も、竜騎士の座も、もう二度と要らない。俺の命は……お前の庭と、お前の笑顔を守るためだけに遣いたい」
瞳の奥に、じわりと熱いものが込み上げてきた。
視界が滲んで、満天の星々がひとつの大きな光の帯になって揺れる。
「……ずるいです、ルーファスさん」
ぽろりと、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
冷たい夜風に冷やされる前に、ルーファスの指先が、そっと私の涙を拭ってくれた。
「私……ずっと、誰からも愛されない場所で、役目を終えることだけを考えて生きてきたのに。……こんなに温かいものを知ってしまったら、もう、一人には戻れません」
「戻らなくていい」
ルーファスは私の肩を抱き寄せ、その広い胸の中に私をそっと引き入れた。
厚手の毛布の中で、彼の力強い心臓の鼓動が、トクン、トクンと私の耳に届く。
「俺が、二度とお前を一人にはさせない」
静かな夜の森の、屋根の上。
星空に見守られながら、二つの傷ついた魂は、生きるための約束を確かに交わしていた。
――けれど。
二人が見つめ合うその夜空の遥か彼方、東の山並みの向こうから。
静寂を切り裂くような、微かな異音――風に乗って響く重い翼の羽音が、ゆっくりと近づきつつあった。




