↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢のお役目は終わりましたので、名もなき森で暮らします  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/16

第10話:森を揺らす羽音

 星空の誓いを交わした翌朝、森の静寂は唐突に破られた。


 朝もやが立ち込める凍てつく空気の中、パチパチと暖炉の前でスープの鍋をかき混ぜていた私は、ふと手を止めた。

 遠く、東の空から、地鳴りのような重い風切り音が響いてきたからだ。


 ――バサササッ、バサササッ……!


 鳥の羽音ではない。空気を力任せに叩き潰すような、鈍く巨大な音。

 それも、ひとつではない。三つ、四つと重なり合っている。


「……ぐるるるる……ッ!」


 庭から、オニキスの切迫した低い威嚇の唸り声が響いた。

 普段は私の前で腹を見せて甘えている黒竜が、首筋の漆黒の鱗をわずかに浮かせ、琥珀色の瞳を鋭く細めて東の空を睨みつけている。


「オニキス……?」


 私が木ベラを置き、ポーチへ駆け出した瞬間――横から伸びてきた逞しい腕が、私の肩を抱き留めて小屋の陰へと引き戻した。


「出るな、コリンナ」


 ルーファスだった。

 その顔は、昨夜の屋根の上で見せた柔らかな表情とは別人のように、青白く張り詰めていた。

 紫紺の瞳が、冬の氷のように鋭く細められている。


「帝国の哨戒部隊だ。ワイバーンが三頭……いや、四頭いる。あいつら、俺とオニキスの残滓を追って、国境の森まで嗅ぎ回りに来やがった」


「帝国軍が……? でも、ここは王国の領内のはずですわ。いくら軍事大国といえども、他国の国境林を無断で捜索するなど……」


「俺を殺し損ねたと知れば、体裁など構っていられない連中だ。オニキスの骨の一本でも回収して、兵器の秘密を暴こうとしているんだろう」


 ルーファスは自嘲するように吐き捨てると、小屋の隅に立てかけてあった黒鉄の胸当てへと手を伸ばした。

 嵐の夜、血まみれになっていたあの鎧。

 私が丹念に泥を落とし、彼が自ら傷を叩いて直した、捨て去ったはずの戦士の甲冑。


「……ルーファスさん?」


 胸が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。


「何をしているのですか。なぜ、それを身につけるのです」


「オニキスを連れて、森を出る」


 ルーファスは私を見ず、淡々とベルトを締め直しながら言った。

 その声は、恐ろしいほど静かで、平坦だった。


「俺たちがここにいれば、いずれこの小屋の結界も見破られる。あいつらの狙いは俺だ。オニキスに無理をさせて低空を飛ばせば、奴らの視線を北の岩山へと誘導できる。そうすれば、お前とこの小屋は守られる」


「……待ってください」


「大丈夫だ。肋骨のヒビは塞がった。ワイバーン四頭くらいなら、オニキスの炎で焼き落とせる」


「待ちなさいと言っているのです!」


 私の鋭い叫び声に、ルーファスが驚いたように動きを止めた。

 私は彼と鎧の間に割って入り、その胸元を両手で強く突いた。


「嘘をおつきにならないで! オニキスの翼はまだ完治していません! 飛べたとしても長距離は無理ですし、四対一で戦って無事で済むはずがありませんわ!」


「だが、ここにいればお前が巻き込まれる!」

 ルーファスが初めて、声を荒らげた。

 その瞳に宿っていたのは、激しい恐怖――私を失うことへの、狂おしいまでの怯えだった。


「帝国軍の残忍さを、お前は知らないんだ! 俺を匿っていたと知れれば、戦場とは無縁のお前まで踏み躙られる! 俺のせいで……俺が生き延びたせいで、お前が血を流す姿なんて、俺は見たくない……!」


「だから、一人で死にに行くのですか!?」


 私の視界が、一瞬で涙で滲んだ。


「昨夜、屋根の上で仰ったことは全部嘘だったのですか!? 明日の朝食が楽しみだと、私の隣で生きていたいと……あれは、その場しのぎの気休めだったのですか!?」


「嘘なわけがあるか!」

 ルーファスは私の手首を掴み、苦悶に満ちた顔で叫んだ。

「本気だった! 生まれて初めて、死にたくないと思った! お前と一緒に、ここで年を取りたいと思った! だからこそ……お前を危険に晒すくらいなら、俺の命で決着をつけるのが――」


「聞き分けのいい顔をして逃げるんじゃないわよ、この馬鹿者が!!」


 私の口から、かつての公爵令嬢としての矜持も、淑女の礼節も、すべてをかなぐり捨てた怒号が飛び出した。


 ルーファスが、息を呑んで硬直する。


「お前を巻き込みたくない? 俺の命で決着をつける? ふざけないでください! そんな独りよがりの自己犠牲、ただの卑怯な逃げ道ですわ!」


 私は掴まれた手を力任せに振りほどき、今度は彼の分厚いシャツの胸倉を、両手でぎゅうぎゅうと掴んで引き寄せた。

 涙がボロボロと溢れ落ちて、止まらなかった。


「私はね、十年間ずっと物分かりのいい女をやってきたの! 誰の邪魔もせず、誰にも我儘を言わず、捨てられる時ですら笑顔で礼をして引き下がったわ! それが正しいことだと、誰のためにもなるのだと信じて耐えてきたのよ!」


 声が裏返り、喉がちぎれそうに痛む。

 けれど、私の指は、ルーファスの胸元を絶対に離さなかった。


「でもね……もう、そんな聞き分けのいい女なんて金輪際お断りです! 勝手に私の庭に落ちてきて、勝手に私の作ったスープを美味しいと泣いて、私の手を温めて……あんなに甘い約束をしておいて、今さら『お前のために死んでやる』だなんて……そんな身勝手、絶対に許しません!」


「コリンナ……」


「行かないで……っ!」


 額を彼の硬い胸板に押し当て、私は子供のように泣き叫んでいた。


「行かないでください、ルーファス……! あなたが死んだら、私一人で残されたこの小屋で、誰のためにカモミールを摘めばいいの!? 誰のためにパンを焼けばいいのよ……! そんなの……あんな冷たい王宮にいた時より、ずっとずっと地獄だわ……っ!」


 ルーファスの身体が、雷に打たれたように震えていた。


 やがて。

 彼の手から、カラン、と鈍い音を立てて黒鉄の胸当てが床へ滑り落ちた。


 代わりに、彼の逞しい両腕が、震える私の背中に回された。

 骨が軋むほどの強い力で、彼は私を抱きしめ直した。

 その顔が私の首筋に埋められ、熱い雫が、私の肌を濡らしていく。


「……すまない」


 低く、掠れた、心底からの謝罪。


「すまなかった、コリンナ。……俺が間違っていた。俺はまた、兵器として死ぬことで、お前を愛した気になろうとしていた……」


「ルーファスさん……」


「死なない」


 ルーファスは顔を上げ、私の涙を乱暴に親指で拭った。

 その瞳からは、迷いも、諦めも、自嘲の影も完全に消え失せていた。

 宿っていたのは、一人の男としての、揺るぎない闘志。


「お前の言う通りだ。俺は生きる。お前の淹れる茶を飲むために、お前の焼くパンを食うために……俺たちのこの場所を、絶対に守り抜く」


 空を裂くワイバーンの羽音が、一段と低く、森の木々を揺らし始めていた。

 敵の索敵網が、この小屋のすぐ上空へと迫っている。


 けれど、私の胸の中には、もう恐怖も涙も残っていなかった。

 隣に立つルーファスと、庭で静かに闘志を燃やすオニキス。


「……結界を、書き換えます」


 私は涙を拭い、きっぱりと告げた。


「私の魔導具と、オニキスの魔力を繋ぎます。名もなき森のすべての木々を味方につけて、帝国軍の目からこの小屋を完全に消し去って差し上げましょう」


 悪役令嬢と竜騎士。

 二人が手を取り合い、自分たちの小さな世界を守るための戦いが、静かに幕を開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。