第10話:森を揺らす羽音
星空の誓いを交わした翌朝、森の静寂は唐突に破られた。
朝もやが立ち込める凍てつく空気の中、パチパチと暖炉の前でスープの鍋をかき混ぜていた私は、ふと手を止めた。
遠く、東の空から、地鳴りのような重い風切り音が響いてきたからだ。
――バサササッ、バサササッ……!
鳥の羽音ではない。空気を力任せに叩き潰すような、鈍く巨大な音。
それも、ひとつではない。三つ、四つと重なり合っている。
「……ぐるるるる……ッ!」
庭から、オニキスの切迫した低い威嚇の唸り声が響いた。
普段は私の前で腹を見せて甘えている黒竜が、首筋の漆黒の鱗をわずかに浮かせ、琥珀色の瞳を鋭く細めて東の空を睨みつけている。
「オニキス……?」
私が木ベラを置き、ポーチへ駆け出した瞬間――横から伸びてきた逞しい腕が、私の肩を抱き留めて小屋の陰へと引き戻した。
「出るな、コリンナ」
ルーファスだった。
その顔は、昨夜の屋根の上で見せた柔らかな表情とは別人のように、青白く張り詰めていた。
紫紺の瞳が、冬の氷のように鋭く細められている。
「帝国の哨戒部隊だ。ワイバーンが三頭……いや、四頭いる。あいつら、俺とオニキスの残滓を追って、国境の森まで嗅ぎ回りに来やがった」
「帝国軍が……? でも、ここは王国の領内のはずですわ。いくら軍事大国といえども、他国の国境林を無断で捜索するなど……」
「俺を殺し損ねたと知れば、体裁など構っていられない連中だ。オニキスの骨の一本でも回収して、兵器の秘密を暴こうとしているんだろう」
ルーファスは自嘲するように吐き捨てると、小屋の隅に立てかけてあった黒鉄の胸当てへと手を伸ばした。
嵐の夜、血まみれになっていたあの鎧。
私が丹念に泥を落とし、彼が自ら傷を叩いて直した、捨て去ったはずの戦士の甲冑。
「……ルーファスさん?」
胸が嫌な音を立てて早鐘を打ち始めた。
「何をしているのですか。なぜ、それを身につけるのです」
「オニキスを連れて、森を出る」
ルーファスは私を見ず、淡々とベルトを締め直しながら言った。
その声は、恐ろしいほど静かで、平坦だった。
「俺たちがここにいれば、いずれこの小屋の結界も見破られる。あいつらの狙いは俺だ。オニキスに無理をさせて低空を飛ばせば、奴らの視線を北の岩山へと誘導できる。そうすれば、お前とこの小屋は守られる」
「……待ってください」
「大丈夫だ。肋骨のヒビは塞がった。ワイバーン四頭くらいなら、オニキスの炎で焼き落とせる」
「待ちなさいと言っているのです!」
私の鋭い叫び声に、ルーファスが驚いたように動きを止めた。
私は彼と鎧の間に割って入り、その胸元を両手で強く突いた。
「嘘をおつきにならないで! オニキスの翼はまだ完治していません! 飛べたとしても長距離は無理ですし、四対一で戦って無事で済むはずがありませんわ!」
「だが、ここにいればお前が巻き込まれる!」
ルーファスが初めて、声を荒らげた。
その瞳に宿っていたのは、激しい恐怖――私を失うことへの、狂おしいまでの怯えだった。
「帝国軍の残忍さを、お前は知らないんだ! 俺を匿っていたと知れれば、戦場とは無縁のお前まで踏み躙られる! 俺のせいで……俺が生き延びたせいで、お前が血を流す姿なんて、俺は見たくない……!」
「だから、一人で死にに行くのですか!?」
私の視界が、一瞬で涙で滲んだ。
「昨夜、屋根の上で仰ったことは全部嘘だったのですか!? 明日の朝食が楽しみだと、私の隣で生きていたいと……あれは、その場しのぎの気休めだったのですか!?」
「嘘なわけがあるか!」
ルーファスは私の手首を掴み、苦悶に満ちた顔で叫んだ。
「本気だった! 生まれて初めて、死にたくないと思った! お前と一緒に、ここで年を取りたいと思った! だからこそ……お前を危険に晒すくらいなら、俺の命で決着をつけるのが――」
「聞き分けのいい顔をして逃げるんじゃないわよ、この馬鹿者が!!」
私の口から、かつての公爵令嬢としての矜持も、淑女の礼節も、すべてをかなぐり捨てた怒号が飛び出した。
ルーファスが、息を呑んで硬直する。
「お前を巻き込みたくない? 俺の命で決着をつける? ふざけないでください! そんな独りよがりの自己犠牲、ただの卑怯な逃げ道ですわ!」
私は掴まれた手を力任せに振りほどき、今度は彼の分厚いシャツの胸倉を、両手でぎゅうぎゅうと掴んで引き寄せた。
涙がボロボロと溢れ落ちて、止まらなかった。
「私はね、十年間ずっと物分かりのいい女をやってきたの! 誰の邪魔もせず、誰にも我儘を言わず、捨てられる時ですら笑顔で礼をして引き下がったわ! それが正しいことだと、誰のためにもなるのだと信じて耐えてきたのよ!」
声が裏返り、喉がちぎれそうに痛む。
けれど、私の指は、ルーファスの胸元を絶対に離さなかった。
「でもね……もう、そんな聞き分けのいい女なんて金輪際お断りです! 勝手に私の庭に落ちてきて、勝手に私の作ったスープを美味しいと泣いて、私の手を温めて……あんなに甘い約束をしておいて、今さら『お前のために死んでやる』だなんて……そんな身勝手、絶対に許しません!」
「コリンナ……」
「行かないで……っ!」
額を彼の硬い胸板に押し当て、私は子供のように泣き叫んでいた。
「行かないでください、ルーファス……! あなたが死んだら、私一人で残されたこの小屋で、誰のためにカモミールを摘めばいいの!? 誰のためにパンを焼けばいいのよ……! そんなの……あんな冷たい王宮にいた時より、ずっとずっと地獄だわ……っ!」
ルーファスの身体が、雷に打たれたように震えていた。
やがて。
彼の手から、カラン、と鈍い音を立てて黒鉄の胸当てが床へ滑り落ちた。
代わりに、彼の逞しい両腕が、震える私の背中に回された。
骨が軋むほどの強い力で、彼は私を抱きしめ直した。
その顔が私の首筋に埋められ、熱い雫が、私の肌を濡らしていく。
「……すまない」
低く、掠れた、心底からの謝罪。
「すまなかった、コリンナ。……俺が間違っていた。俺はまた、兵器として死ぬことで、お前を愛した気になろうとしていた……」
「ルーファスさん……」
「死なない」
ルーファスは顔を上げ、私の涙を乱暴に親指で拭った。
その瞳からは、迷いも、諦めも、自嘲の影も完全に消え失せていた。
宿っていたのは、一人の男としての、揺るぎない闘志。
「お前の言う通りだ。俺は生きる。お前の淹れる茶を飲むために、お前の焼くパンを食うために……俺たちのこの場所を、絶対に守り抜く」
空を裂くワイバーンの羽音が、一段と低く、森の木々を揺らし始めていた。
敵の索敵網が、この小屋のすぐ上空へと迫っている。
けれど、私の胸の中には、もう恐怖も涙も残っていなかった。
隣に立つルーファスと、庭で静かに闘志を燃やすオニキス。
「……結界を、書き換えます」
私は涙を拭い、きっぱりと告げた。
「私の魔導具と、オニキスの魔力を繋ぎます。名もなき森のすべての木々を味方につけて、帝国軍の目からこの小屋を完全に消し去って差し上げましょう」
悪役令嬢と竜騎士。
二人が手を取り合い、自分たちの小さな世界を守るための戦いが、静かに幕を開けた。




