第11話:結界の強化と誓いの夜
上空を旋回する四頭のワイバーンの影が、庭の雪原を黒々と横切っていく。
木々を薙ぎ払う突風とともに、甲高い爬虫類の咆哮が降り注ぎ、小屋の窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げていた。
「索敵魔術を展開しているな。このままだと、あと数分でこの一帯の微弱な魔力反応を捕捉される」
庭の中央、雪を払った地面の上にしゃがみ込みながら、ルーファスが低く告げた。
その隣に、私は古びた真鍮の魔導ナイフを構えて膝をついていた。
地面に埋め込まれているのは、私が王都を出る前に買い集めた、掌大の水晶の要石。
これまで害獣を遠ざけていた簡易結界の核だ。
「コリンナ、本当にやれるのか」
「疑うなら手を出さないでくださいまし」
私は強気に微笑んでみせたけれど、手袋を外した指先は、冷気と緊張でかすかに震えていた。
「私の魔導知識を侮らないで。オルデンブルク公爵家の娘として、王都の大結界の維持構造はすべて頭に入っています。問題は術式ではなく、この森全域を覆うだけの魔力量だけです」
「それなら、問題ない。竜騎士と契約竜の間には魔力の通り道がある。俺が媒介になれば、オニキスの力をお前へ流せる」
ルーファスが立ち上がり、オニキスの巨大な鼻先へと歩み寄った。
傷口を庇いながら身を起こした黒竜が、喉の奥でゴロゴロと主に応える。ルーファスはその額に、自らの額をコツンと当てた。
「オニキス、力を貸せ。……俺たちの、新しい家を守るぞ」
その言葉に、黒竜の琥珀色の瞳がカッと黄金色に輝いた。
オニキスの巨躯から、夜の闇よりも深い漆黒の魔力が、陽炎のように立ち上る。神話の時代から生き続ける古代竜の、底なしの霊力。
「コリンナ、手を」
ルーファスが振り返り、私に右手を差し出した。
私は迷わず、その無骨で温かい掌に自分の手を重ねた。
ぎゅっと、指が絡み合う。
その瞬間、ルーファスの身体を経由して、オニキスの莫大で温かな魔力が、私の血潮の中へと一気に流れ込んできた。
「っ……!」
あまりの魔力の奔流に、視界が白く明滅する。
倒れそうになる私の腰を、ルーファスの左腕がしっかりと抱き留めた。
「怖がるな、俺がいる。お前の身体を傷つけさせはしない」
耳元で囁かれた低く力強い声。
その温もりに背中を押され、私は魔導ナイフの切っ先を水晶の要石へと突き立てた。
「――我が声を聞け、静謐なる名もなき森の木々よ!」
ナイフを通じて、オニキスの膨大な魔力を、公爵家に伝わる古代語の術式へと変換して注ぎ込む。
青白い光の文字が、要石から幾何学模様の蔦のように地面を這い、四方八方へと広がっていく。
「欺瞞の帳を垂らせ。外なる者の瞳を曇らせ、道を奪い、視界を閉ざせ! ここにあるのはただの岩、ただの雪、ただの枯れ野――何者も存在せぬ、虚無の森なり!」
要石が、ピキィンと高い共鳴音を響かせた。
大地が、微かに震動する。
そして――。
シュゥゥゥ……と音を立てて、地面の割れ目から、濃密な白い霧が噴き出し始めた。
ただの霧ではない。空間の認識を狂わせ、距離感を奪い、魔力探知を完全に霧散させる『迷妄の常夜霧』。
霧は一瞬にして庭を覆い、小屋を飲み込み、そして木々の梢を越えて空へと立ち昇っていった。
上空から、突然の異変に狼狽える騎士たちの怒号が響いてくる。
『な、何だこの霧は!?』
『計器が狂った! 羅針盤が回らないぞ!』
『高度を保て! 木々に激突するぞ!』
ワイバーンたちが怯えたように叫び、旋回の輪を乱すのが見えた。
彼らの瞳には、眼下に広がる広場も小屋も映っていないはずだ。見えるのは、どこまでも続く底なしの深い谷間と、牙を剥く岩山の幻影だけ。
『退避だ! この森の魔力濃度が急上昇している! これ以上は墜落の危険がある、国境線の基地まで一度引くぞ!』
号令とともに、羽音が遠ざかっていく。
東の空へ逃げ帰っていく四つの影が、霧の向こうへと完全に消え去った。
森に、再びしんとした静寂が戻ってきた。
「……はぁ、はぁっ……」
膝の力が抜け、私の身体が崩れ落ちそうになった。
けれど、地面に倒れる前に、ルーファスの逞しい胸の中にしっかりと受け止められていた。
「コリンナ! 大丈夫か!?」
「……ええ。ただ、少し……魔力を使いすぎて、ふらふらするだけです……」
見上げると、ルーファスが心底安堵したように息を吐き出していた。
彼の紫紺の瞳に、私の顔が映っている。
庭のオニキスは、満足そうに「ふしゅぅ」と鼻を鳴らし、再び雪の上に寝転がって丸くなっていた。
小屋の周囲を満たす白い霧は、薄っすらと庭の外周に留まり、まるで世界からこの場所を切り取るカーテンのように、穏やかに揺らめいている。
「成功だ」
ルーファスは私の額に落ちた淡い金髪を、震える指先で優しく払った。
「帝国軍の探知網は完全に狂った。この結界がある限り、奴らはこの小屋の正確な位置を二度と捉えられない」
「良かったです……。これで、私たちの庭を守れましたわね」
私が微笑むと、ルーファスの瞳が揺れた。
彼は私の手を握り直し、その甲に、誓うように深く口づけを落とした。
「……ルーファスさん?」
「コリンナ」
彼は私を抱き起こし、暖炉の火が燃える小屋の中へと運んでくれた。
粗末な木の椅子に私を座らせると、彼自身は私の前に片膝をつき、見上げるようにして私の手を取った。
「俺は、お前にすべてを救われた。命も、心も、生きる意味も……全部だ」
暖炉の炎が、彼の端正な横顔を赤く染めている。
「もう、二度とお前を一人にしない。死ぬことでお前を守るなんて、そんな愚かなことは二度と考えない。……俺の命も、この腕も、お前とこの森で生きるためだけに使う」
言葉が途切れ、彼の紫紺の瞳が、熱を帯びて私を捉えた。
「一生、お前の隣で生きたい。……お前も、俺の隣にいてほしい」
それは、夜会のきらびやかな壇上で交わされるような、飾り立てた愛の言葉ではなかった。
豪奢な贈り物も、甘い社交辞令もない。
けれど、泥と雪にまみれ、世界の片隅で交わされたその言葉は、何よりも硬く、何よりも純粋な誓いだった。
「……はい」
私の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
けれど今度は、悲しい涙ではない。胸がいっぱいになって溢れ出した、温かな涙。
「喜んで。……私も、あなたの隣で生きたいです」
私が頷いた瞬間、ルーファスが立ち上がり、私を優しく抱きしめた。
重ね合わされた唇から、互いの温もりが溶け合っていく。
外の世界がどれほど遠ざかろうと。
この小さな小屋の中には、誰にも奪うことのできない、永遠の平穏が満ちていた。
――だが。
帝国の脅威を退けたその一週間ほど後。
今度は西の街道から、決してここへ辿り着くはずのなかった『招かれざる過去』が、森の境界へと姿を現すことになる。




