第12話:手遅れの使者たち
帝国の哨戒部隊を退けてから、さらに一週間が過ぎた。
深い森を包み込む『迷妄の常夜霧』は、外敵を寄せ付けない完璧な天蓋となっていた。
数日前の雪は日当たりのよい場所から斑に消え、黒い土と霜に強い低い冬草が顔を覗かせている。
オニキスは日当たりの良い岩肌の上で昼寝を楽しみ、ルーファスは本格的に地面が凍る前に、畑の畝と排水溝を鍬で黙々と整えてくれていた。
世界で一番穏やかな日常。
けれどその静寂を破るように、森の西側の結界石が、チリチリと微かな警戒の震動を伝えてきた。
「……誰か、森の入り口まで来ているわ」
私が土を払って立ち上がると、ルーファスが素早く鍬を置き、私の前に立った。
「帝国軍か?」
「いいえ。帝国の魔力反応ではありません。……西から、王国の街道を伝ってやってきたようです」
二人で顔を見合わせた。
王国側――すなわち、私がすべてを捨てて立ち去った、あの王都から来た者たちだ。
「オニキスを連れて行く。お前は小屋にいろ」
「いいえ、私も行きます」
私は首を横に振った。
「私の過去です。きちんと、この手で終わらせてきますわ」
私の迷いのない瞳を見て、ルーファスは静かに頷いてくれた。
「分かった。俺は霧の奥で控えている。何かあればすぐに呼べ」
私たちは森の境界線――濃い霧が幕のように揺らめく、原生林の入り口へと向かった。
木々の隙間から街道を見下ろすと、そこには酷く疲れ果て、泥まみれになった数騎の馬が立ち往生していた。
乗っているのは、豪華な金糸の刺繍が入った近衛のサーコートを身につけた騎士と、宮廷の文官服を着た男たち。
王太子の直属の部下たちだった。掲げているのも王家の正式な使節旗ではなく、アウグスト殿下個人の紋章旗だ。どうやら殿下が独断で差し向けた私的な使者らしい。
「ひ、酷い霧だ……! 羅針盤も効かん、本当にこんな魔獣の巣窟に公爵令嬢がおられるのか!?」
「間違いない、街道の宿場の目撃証言では、この森へ向かったと……あっ! 見ろ、誰かいるぞ!」
騎士が指差した先。
霧の中から、麻のワンピースに革のエプロンをつけた私が、静かに姿を現した。
文官の男が、泥を跳ね上げながら馬から転がり落ちるように駆け寄ってきた。
「お、おお……! コリンナ様! コリンナ・オルデンブルク様ですね! ああ、神よ、ようやく見つけた……!」
「何かご用でしょうか、王宮の皆様」
私は立ち止まり、冷ややかに問いかけた。
かつての婚約者の側近たち。夜会でアウグスト殿下が私を罵倒した際、一緒になって嘲笑を浮かべていた男たちだ。
男たちは私の姿を頭から爪先まで見つめ、一瞬だけあからさまな軽蔑と侮りの色を瞳に浮かべた。
宝石ひとつ身につけず、泥のついた長靴を履いた元公爵令嬢。彼らの目には、みじめに落ちぶれた哀れな女に映ったのだろう。
文官はわざとらしく咳払いをし、懐から豪奢な紫の封蝋が施された羊皮紙の筒を取り出した。
王太子アウグストの親書だ。
「コリンナ様。アウグスト王太子殿下からの、大いなる慈悲の親書をお持ちいたしました!」
男は尊大に胸を張り、演説でもぶつように声を張り上げた。
「殿下は仰せです! 『あの夜のことは、互いに少し熱くなりすぎていた。貴様の過去の無礼や傲慢さは、すべて水に流して許してやろう。直ちに王都へ戻り、以前のように公務の遅れを取り戻せ。さすれば……貴様を哀れんで、正妃の座に据え直してやってもよい』との、この上なき温情に満ちたお言葉でございます!」
「……」
「さあ、このような不潔でみすぼらしい森の生活など今すぐやめ、我らと共に王都へお戻りください! 馬車を用意してございます! 泣いて殿下に感謝なさいませ!」
騎士たちもまた、「戻れるのだからありがたく思え」と言わんばかりの態度で顎をしゃくっている。
私は差し出された羊皮紙の筒を、無言で受け取った。
封蝋を指先で割り、中身を広げる。
そこには、乱れた筆跡で、自己保身と身勝手な傲慢さを撒き散らしたアウグストの直筆の言葉が並んでいた。
『お前がいないせいで王宮がどれほど混乱しているか分かっているのか』
『戻ってきて書類を片付けろ、そうすれば許してやる』
『リリィには少し我慢させるから、お前も昔のように私を立てろ』――。
どこまでも、浅ましく、醜悪だった。
彼らは最後まで、何ひとつ理解していなかったのだ。
私がなぜあの日、すべてを捨てて一礼して去ったのか。私がどれほどの覚悟で彼らを切り捨てたのかを。
「……ふふ」
思わず、乾いた笑いが零れ落ちた。
「な、何がおかしいのですか、コリンナ様? さあ、早く荷物をまとめて……」
ビリッ。
静かな森に、乾いた紙の裂ける音が響いた。
「……え?」
文官がぽかんと口を開けた。
私はアウグストの親書を、迷うことなく真ん中から真っ二つに引き裂いた。
さらに重ねて、四つに。八つに。
ビリ、ビリ、ビリ……ッ。
「な、な……っ!? 貴様、何をしているんだァ!?」
騎士が血相を変えて怒鳴り声を上げた。
「それは殿下の親書だぞ! 王族への大不敬罪だ! 正気か!?」
「ええ、極めて正気ですわ」
私は細かく引き裂いた羊皮紙の破片を、泥まみれの地面へパラパラと撒き散らした。
風に吹かれて舞い散る紙屑を、長靴の底でぐっと踏みにじる。
「申し上げたはずです。あの日、あの夜会の場で。私は謹んで婚約破棄をお受けいたしました。オルデンブルク公爵令嬢コリンナは、あの瞬間に死にましたのよ」
私の澄み切った声に、男たちが気圧されたように息を呑む。
「公爵家の籍も、相続権も、王妃の座も、すべて置いてきました。今の私は、ただこの森で生きる、名もなき一人の住人です。もう婚約者でもない殿方の公務を手伝う義理など、爪の先ほどもございません」
「ふ、ふざけるな! 殿下がせっかく情けをかけてくださっているのだぞ! 戻らねば国が立ち行かないのだ!」
「なら、立ち行かなくなればよろしいではありませんか」
私は冷ややかに微笑んだ。
「優秀なリリィ様と、天性の王才をお持ちだというアウグスト殿下がおいでなのでしょう? お二人で手を取り合い、愛の力で国をお救いになればよろしくてよ」
「き、貴様ぁっ……! こうなれば力づくでも連れ戻す! 腕ずくで馬車に押し込めろ!」
逆上した騎士が、腰のサーベルの柄に手をかけた――その瞬間だった。
――グオォォォォォォッッッ!!!!
天地を叩き割るような、凄まじい大音響の咆哮が森の奥から轟いた。
暴風のような竜圧が吹き荒れ、木々の枝が一斉にへし折れる。
「ひ、ヒィィッ!?」
「う、馬が……馬が狂ったァッ!?」
騎士たちの軍馬が一斉に嘶き、白目を剥いて暴れ狂った。男たちは泥の中に無様に転がり落ち、悲鳴を上げて頭を抱える。
そして。
揺らめく白い霧を切り裂いて現れたのは、山のように巨大な漆黒の古竜オニキス。
その巨大な頭の脇から、黒鉄の鎧を纏った男が、氷のような殺気を撒き散らしながら歩み出てきた。
ルーファスだ。
腰の大剣の柄に無造作に手を置いた大男は、地べたに這いつくばる使者たちを、虫けらでも見るような冷酷な瞳で見下ろした。
「……誰の女に、刃を向けようとした?」
低く、大気を震わせる重低音。
騎士の一人が、ルーファスの顔を見た瞬間、顔面を蒼白にして失禁せんばかりに震え上がった。
「く、黒竜騎士団長……!? ば、馬鹿な、帝国の死神が……なぜ、こんなところに……!?」
「消えろ」
ルーファスは名乗りすら上げず、ただ一言、死刑宣告のように告げた。
「次にこの森へ足を踏み入れたら、首と胴体を切り離してオニキスの餌にする。王太子にもそう伝えろ。『コリンナに触れようとするなら、俺とオニキスを敵に回す覚悟をしろ』とな」
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!」
「た、助けてくれぇぇぇっ!」
騎士も文官も、取り落とした荷物すら拾い上げず、這うようにして街道へと逃げ出していった。
泥だらけになりながら、馬の尻を叩いて蜘蛛の子を散らすように去っていく背中。
森の入り口には、踏みにじられた紙屑と、再び訪れた穏やかな静寂だけが残されていた。
「……ふう」
私が小さく息を吐き出すと、ルーファスが背後から歩み寄り、私の肩を優しく抱き寄せてくれた。
「怖くはなかったか」
「全然」
私は彼を見上げ、心からの笑顔を浮かべた。
「ただ……とても、胸がすっきりいたしましたわ」
遠ざかる王都の影を背に、私たちは手を取り合って、温かいスープの待つ自分たちの家へと歩き出した。
過去は、もう二度と私たちの足首を掴むことはできない。




