第13話:竜騎士の剣を置くとき
王国の使者たちを追い払った翌日の夕暮れ。
先日の哨戒部隊が持ち帰った結界の報告を受けたのだろう。今度は、森の東側の境界――帝国の領境に接する岩山地帯に、冷たい緊張が走っていた。
結界の白い霧がたなびく森の縁に、数十騎の重装竜騎兵が整列していた。
掲げられているのは、ガルディニア帝国の双頭鷲の軍旗。
その中央、絢爛な黒金のマントを羽織った初老の男が、ワイバーンの背から冷酷な眼光で森を見つめていた。
帝国の最高軍務卿、バルト大将軍。
かつてルーファスを「都合のいい狂犬」として戦場に送り出し、戦争が終わるや否や謀略で彼を罠に嵌めた張本人だった。
「……霧の結界など張りおって。小細工を弄するものだ」
バルトが吐き捨てた、その時。
ズゥゥゥン……と、大地を揺るがす重い足音が響いた。
乳白色の濃霧が左右へと綺麗に割れ、そこから一頭の巨大な漆黒の竜が姿を現した。
黒竜オニキス。
折れていた翼は、古代竜の強い再生力と療養のおかげで、今では大きく広げても痛みを見せないほどまで回復している。鋼鉄のような黒鱗が夕暮れの朱い光を浴びて鈍く輝いていた。
帝国のワイバーンたちが、神話の古竜の威圧感に耐えかねて、一斉に怯えた悲鳴を上げて後退した。
そして、オニキスの足元。
黒鉄の胸当てを外した、簡素な白い麻シャツに革のズボン姿の男が、大股で歩み出てきた。
ルーファスだ。
そのすぐ半歩後ろには、淡い金髪を風になびかせた私が、静かに寄り添っていた。
「……やはり生きていたか、ルーファス」
バルトが馬上から冷ややかに見下ろしてきた。
その唇には、獲物を追い詰めたと信じる傲慢な笑みが張り付いている。
「あの嵐の夜に伏兵を皆殺しにして逃げ延びたとは聞いていたが、まさかこんな僻地の森で、女の尻に敷かれて隠れ潜んでいたとはな。落ちぶれたものだな、帝国最強の死神が」
背後でオニキスが喉を鳴らし、バルトを一飲みにしようと身を乗り出しかけた。
けれど、ルーファスが片手を軽く上げると、竜は従順に動きを止めた。
「何をしに来た、バルト卿」
ルーファスの声は、風のように平坦だった。
かつて自分を陥れた男を前にしながら、怒りも、恨みも、焦燥も欠片も宿っていない。
その底知れぬ静寂に、バルトがわずかに眉をひそめた。
「連れ戻しに来たのだ。皇帝陛下はお前の武功を惜しんでおられる。我が軍に戻り、再び黒竜騎士団長として前線に立て。そうすれば……貴様が軍規を破って逃亡した罪は不問にしてやろう。お前にはそれしか生きる道がないはずだ」
バルトは恩着せがましく顎をしゃくり、私の方を蔑むように一瞥した。
「そこの平民の小娘にいくら握らせたかは知らんが、手切れ金をくれてやれば良かろう。貴様は戦場で血を啜って生きる兵器だ。土を耕して穏やかに暮らすなど、笑止千万だと思わんか?」
嘲笑するバルトに対し、帝国兵たちが下卑た笑みを漏らそうとした――その瞬間。
シャリィン、と澄んだ金属音が鳴り響いた。
ルーファスが、腰に佩いていた長剣を静かに引き抜いたのだ。
刀身に彫られているのは、帝国皇室の紋章と、黒竜騎士団長の銘。
皇帝から直々に下賜された、帝国軍人の最高峰の栄誉を示す宝剣。
バルトが目を細めた。
「ほう、やる気か? だがオニキス一頭で、我が竜騎兵大隊を相手に無傷でいられると思うなよ――」
バルトの言葉は、最後まで続かなかった。
ドスッッ!!
ルーファスは剣を構えることすらせず、両手で柄を握り、自らの足元――森と帝国の境界線である地面へと、力任せに切っ先を突き刺したのだ。
深々と、刀身の半ばまで大地に穿たれた宝剣。
「……なっ、貴様、何を……!?」
息を呑むバルトを見据え、ルーファスは背筋を伸ばした。
夕陽に照らされたその紫紺の瞳は、一点の曇りもなく澄み切っていた。
「黒竜騎士団長ルーファス・ハミルトンは、あの嵐の夜に死んだ」
低く、揺るぎない声が、岩山に木霊した。
「ここにいるのは、ただの木こりだ。帝国に捧げる剣も、命も、血の一滴すら残っていない」
「き、貴様……皇室より賜った宝剣を地面に捨てるか! 国家への反逆だぞ! 死罪に処されるぞ!」
「好きにするがいい」
ルーファスは自嘲すら浮かべず、ただ冷ややかに言い放った。
「だが、この剣から一歩でも森へ足を踏み入れてみろ。オニキスが貴様らを一頭残らず灰燼に帰す」
オニキスが大きく翼を広げ、低く唸り声を上げた。
ゴゴゴゴ……と大気が振動し、岩山の小石がパラパラと崩れ落ちる。
帝国の竜騎兵たちのワイバーンが、恐怖に耐えかねて次々と地面に膝をつき、バルト自身も手綱を取り落としそうになって顔面を蒼白にした。
「……オニキスはもはや、帝国の兵器ではない」
ルーファスは地面に刺さった剣から手を離した。
未練も、躊躇いも、一片たりとも残っていない、あまりにも潔い手放し方。
「オニキスは、俺の大切な人の庭を守る番犬だ。俺もまた、彼女のスープを飲み、彼女の隣で生きるためにこの腕を使う」
大切な人。
その言葉に、私の胸がカッと熱くなった。
ルーファスが振り返り、私に手を差し伸べてくる。
私は迷わず進み出て、その大きな手を両手でしっかりと握りしめた。
「狂ったか、ルーファス……! 国家の英雄としての栄華を捨て、そんな名もなき小娘のためにすべてを投げ打つというのか……!」
狼狽と怒りで顔を歪めるバルトに、ルーファスは背を向けた。
一度も、二度と振り返ることはなかった。
「英雄など、最初からなりたくてなったわけではない。……俺が欲しかったのは、ただこれだけだ」
握り合う私たちの手の温もり。
ルーファスはオニキスの首筋を優しく叩き、霧の立ち込める森の奥へと歩き出した。
背後でバルトが何かを喚き散らしていたが、二人が歩みを進めるごとに、白い霧がカーテンのように厚く垂れ込めていく。
怒号も、馬の蹄の音も、国家のしがらみも、すべてが霧の向こうへと消え去っていった。
境界の地面に残した宝剣を、ルーファスはもう一度も振り返らなかった。あれをバルトが持ち帰ろうと、そのまま朽ちさせようと、もはや彼には関係のないことだった。
「……ルーファスさん」
霧の中、並んで歩きながら私が呼びかけると、彼は少し照れくさそうに、私の手を握り直した。
「……大切な人、と勝手に言ったのは、不都合だったか」
「いいえ。とても……嬉しかったですわ」
私が微笑むと、彼は心底安堵したように、ふっと柔らかく笑った。
悪役令嬢が役目を終えたように。
国家の死神と呼ばれた竜騎士もまた、自らの呪われた役目を、完全に終わらせたのだ。
夕闇が迫る森の向こうで、私たちの小さな小屋の煙突から、温かな薪の煙がひとすじ、空へと立ち上っていた。




