第14話:二度と届かない場所
王都の王宮、豪奢な玉座の間。
天井画を見上げる厳粛な空間は今、氷のように冷え切った沈黙に支配されていた。
玉座に鎮座する国王の眼前で、泥まみれになり、失禁せんばかりに震えている二人の男が平伏していた。
名もなき森から、命からがら逃げ帰ってきた王太子の特使たちだ。
「……もう一度言ってみろ」
宰相の低く震える声が、大理石の床を叩いた。
「コリンナ嬢は……殿下の親書を受け取って、何と仰ったのだ」
文官が額を床に擦り付け、歯の根をガタガタと鳴らしながら絞り出した。
「は、はいぃっ……! コリンナ様は、殿下の親書を一瞥するなり……その場で真っ二つに引き裂かれ、さらに細かく破り捨てて泥の中に踏みにじられました……! そして、『オルデンブルク公爵令嬢はあの夜に死んだ。もう婚約者でもない殿方の公務を手伝う義理など爪の先ほどもない』と……!」
「な……っ!?」
玉座の脇に控えていたアウグスト王太子が、弾かれたように叫んだ。
「嘘だ! あの女がそんな無礼を働くはずがない! 貴様ら、何か余計なことを言って怒らせたのだろう!」
「余計なことだと?」
国王の声が低く落ちた。
「私は正式な謝罪使節を整えるよう命じたはずだ。誰が『許してやるから戻れ』などという親書を持たせた」
「へ、陛下! 我らはアウグスト殿下ご自身の私印を受け、仰せの通り『許してやるから戻れ』と伝えたのです! そ、それに……それだけではございません!」
今度は同行した近衛騎士が、蒼白な顔を上げて悲鳴のように報告を続けた。
「コリンナ様の背後から……現れたのです! あのガルディニア帝国の神話級の黒竜と、死神と恐れられる黒竜騎士団長ルーファス卿が……!」
「……何だと!?」
玉座の国王が、思わず立ち上がった。
広間に控えていた数十人の重臣や大貴族たちが、一斉にざわめき、顔を見合わせる。
「ルーファス卿は剣の柄に手をかけ、我らに向けてこう言い放ちました……! 『コリンナに触れようとするなら、俺とオニキスを敵に回す覚悟をしろ』と……! あれは本物の殺気でございました! 我らなど、一息に灰燼に帰されるところだったのです!」
「ば、馬鹿な……っ!」
アウグストは頭を抱え、後退りした。
「なぜ帝国の英雄がそんなところにいる!? コリンナは……コリンナは私を愛していたはずだ! 十年間、私のために尽くしてきた女だぞ! 他の男に靡くはずがない、私を拒絶するはずがないんだァッ!」
「見苦しいぞ、アウグスト!!」
ドォンッ! と玉座の手すりを叩き、国王の怒号が響き渡った。
国王は鬼のような形相でアウグストを睨みつけていた。
「まだ分からぬのか、この愚か者が! コリンナ嬢はお前を愛していたのではない! 公爵令嬢としての責任感だけで、お前という出来損ないを王にするために耐え忍んでいただけだったのだ!」
「ち、父上……っ!」
「彼女はお前を捨てたのだ! 手紙を破り捨て、踏みにじったという事実こそが、彼女からの最後の返答だ! お前が『許してやる』などと傲慢に上から目線で慈悲を垂れること自体、反吐が出るほど身の程知らずだったのだ!」
「ひっ……!」
アウグストの喉が引きつった。
周囲の貴族たちからも、同情の欠片もない、冷酷な軽蔑の視線が突き刺さる。
その時、広間の隅から、みすぼらしい泣き声が上がった。
「で、殿下ぁ……っ、そんな……! 王妃様になれるって言ったじゃないですかぁ……!」
派手なだけのドレスを引きずり、リリィがすがりついてきた。
だが、追いつめられたアウグストは、そのリリィの顔を憎悪に満ちた瞳で睨みつけた。
「寄るな、疫病神め!」
「きゃっ!?」
アウグストはリリィの肩を突き飛ばした。
床に転がったリリィを、アウグストは激昂して指差す。
「お前だ! お前のような頭の空っぽな女に唆されて、コリンナを追い出してしまったから、私はこんな目に遭っているんだ! お前さえいなければ、コリンナは今も私の隣で書類を片付けてくれていたのに……!」
「な、なんですってぇ!? 酷い! 自分からリリィを口説いておいて、全部私のせいにするなんてぇ!」
玉座の前で醜く罵り合う王太子と男爵令嬢。
その浅ましい光景に、国王は心底からの嫌悪を込めて目を伏せ、冷ややかに告げた。
「近衛、その娘を王宮から下がらせろ。王太子妃候補としての扱いは本日をもって取り消す。男爵家にも、これまで王太子費から流れた金銭の監査に応じてもらう」
「い、嫌ぁぁぁっ! 殿下、助けてぇぇぇっ!」
叫び喚くリリィは、容赦なく近衛兵たちに引きずり出されていった。
扉が重く閉ざされ、静まり返る広間で、アウグストはガタガタと震えながら国王を見上げた。
「ち、父上……私は、私は王太子です……! どうか、もう一度チャンスを……!」
「黙れ。貴様に次などない」
国王の口から紡がれたのは、絶対零度の廃嫡宣告だった。
「隣国との条約危機、国政の混乱、そして私の命令を無視して近衛を私的に動かし、他国の最高戦力を無用に挑発した責任は重い。本日をもって王太子位と王位継承権を剥奪する。今後は評議会の裁定が下るまで、北の離宮で謹慎せよ」
「そ、そんな……! 嘘だ、私が王になれないなんて……! コリンナァッ! コリンナァァァッ!!」
絶叫しながら近衛兵に取り押さえられ、引きずられていくアウグスト。
かつて栄華の頂点にいた愚かな男の悲鳴は、やがて冷たい石造りの廊下の奥へと消えていった。
重苦しい静寂が戻った玉座の間で、列席していた一人の老貴族が、静かに一歩前へ進み出た。
コリンナの実父、オルデンブルク公爵だった。
「……オルデンブルク卿」
国王が痛ましそうに声をかけた。
「娘の件、王家として……何と詫びればよいか……」
「滅相もございません、陛下」
公爵は深く一礼した。
その表情には、かつての厳格さではなく、どこか憑き物が落ちたような、穏やかな父親の顔が浮かんでいた。
「あの子は、誰の血も流さず、誰をも傷つけることなく、自らの意志で舞台を降りました。……そして、自らの手で、何者にも代えがたい真の伴侶を見つけ出したようです」
公爵は窓の外、遥かな東の空を見つめた。
「陛下。王家として、正式な布告を出していただきたく存じます。『東の境界の深森を保護区域とし、本人の許しなき立ち入りを禁ずる』と。……あの子の平穏を、二度と誰にも脅かさせないために」
「……うむ。直ちに勅令を出そう」
こうして、王都の狂騒劇は完全に幕を下ろした。
地図の上に白く塗りつぶされた、名もなき深い森。
そこはもう、誰の思惑も、誰の怒号も、二度と届くことのない、世界で一番静かな楽園として封じられたのだ。




