第15話:名もなき木で作った指輪
あの騒動から冬を越え、名もなき森に、待ち望んでいた春が訪れた。
雪解け水が小川となって心地よいせせらぎを響かせ、凍てついていた黒い土からは、瑞々しい若草の芽が一斉に顔を出している。
庭の片隅では、冬を越えたカモミールが柔らかな緑の葉を広げ、木々の梢には小さな薄紅色の野花が咲き乱れていた。
庭の真ん中では、オニキスが春の陽光を浴びて、ゴロゴロと喉を鳴らしながら草地の上を転がっていた。
大きな黒い角の先には、春の訪れに浮かれた小鳥たちが二羽、ちょこんと止まって囀っている。
かつて帝国全土を震え上がらせた神話の黒竜は、今やこの森で一番のんびりとした住人だった。
「……ふう。いい土ね」
私は麻のエプロンの泥を払い、立ち上がった。
冬の間にルーファスが何度も鍬を入れて耕してくれた畑は、驚くほど柔らかく、温かな土の匂いを放っている。
ここへ人参や蕪、そして新しい薬草の種を蒔くのだ。
「コリンナ、茶が入ったぞ」
木製のポーチから、聞き慣れた低い声が届いた。
振り返ると、袖をまくった麻シャツ姿のルーファスが、湯気を立てる二つの木製マグカップを持って立っていた。
「ありがとうございます、ルーファスさん」
私は井戸水で手を洗い、ポーチの階段に腰掛けた。
彼が私の隣に腰を下ろし、カップをひとつ手渡してくれる。
カモミールと干した野苺を混ぜ合わせた、甘酸っぱく優しい香り。
一口飲むと、春風の心地よさと相まって、身体の芯までじんわりと解きほぐされていくようだった。
「……畑の準備、ほとんど終わらせてくださって助かりました。今年はいっぱいお野菜が採れそうですね」
「ああ。裏山の倒木も片付けたから、薪もしばらくは困らない」
そう答えるルーファスの横顔は、出会ったばかりの頃のような鋭い険しさは微塵もなく、驚くほど穏やかだった。
けれど、どこか――今朝から、彼の様子がおかしいことに私は気づいていた。
いつもなら食事が終わればすぐに次の作業へ向かう彼が、さっきから落ち着きなく、ズボンのポケットの中に手を入れたり出したりしているのだ。
紫紺の瞳が、庭を見たり、マグカップを見たりして、泳いでいる。
「……あの、ルーファスさん?」
「な、なんだ」
「何か、気になることでもありますか? また結界に異変でも……」
「いや! 結界ではない。……外の連中は、二度とここへは来ない」
ルーファスは首を横に振り、それから意を決したように、ごくりと喉を鳴らした。
マグカップをポーチの床に置くと、彼は私の正面に向き直り、床に両膝をついたのだ。
「えっ……? ルーファスさん?」
突然の改まった態度に、私の心臓が小さく跳ねた。
「コリンナ」
彼の手が、ポケットの奥から手のひらに収まるほどの小さな木箱を取り出した。
樹皮の模様が残る、手作りの素朴な小箱。
ルーファスはその小箱の蓋を、震える指先でゆっくりと押し開けた。
「……っ」
中に納められていたものを見た瞬間、私の息が止まった。
それは、二つの指輪だった。
けれど、王宮の貴族たちが身につけるような、金やプラチナの台座に巨大なダイヤモンドを嵌め込んだ指輪ではない。
どちらも木製だった。
森の奥で倒れていた、名も知らない堅木から切り出され、気の遠くなるような時間をかけて磨き上げられた、滑らかな飴色の指輪。
一つには、ルーファスの手による繊細な彫刻が施されていた。
オニキスの鱗を模した力強い波模様と、その中央に寄り添うように咲く、小さなカモミールの花。もう一つは少し太く、同じ模様を簡素に刻んだ揃いの指輪だった。
「……ルーファス、さん……これ……」
「冬の間、お前が寝静まった後に、暖炉の火のそばで少しずつ削っていたんだ」
ルーファスは不器用そうに視線を彷徨わせながら、けれど言葉を一つひとつ、噛み締めるように紡ぎ出した。
「俺には、金も宝石もない。帝国の爵位も、領地も、名誉も……あの時、すべて地面に突き刺して捨ててきた。今のお前になにひとつ、贅沢な暮らしをさせてやることはできない」
彼の手が、私の左手をそっと包み込んだ。
傷だらけで、ゴツゴツとした、温かい木こりの手。
「だが……俺の命も、この腕も、心臓の最後の一刻みまで、すべてお前に捧げる。この森でお前と共に生き、お前を愛し、お前を守り抜くことを……この名もなき木にかけて誓う」
紫紺の瞳が、真っ直ぐに私の瞳の奥を捉えた。
「俺の妻になってほしい、コリンナ。……一生、俺の隣にいてくれないか」
視界が、瞬く間に熱い膜で覆われた。
ぽろぽろと、涙が溢れて止まらなかった。
公爵令嬢だった頃、婚約者の王太子から贈られた宝石の指輪は、数え切れないほどあった。どれも目が眩むほど高価で、冷たく輝く無機質な石の塊。
それを受け取るたび、私は「王妃になるための義務」という名の重い首輪をはめられたような息苦しさを感じていた。
けれど、今、目の前にあるこの指輪は。
冬の寒い夜、薪の爆ぜる音を聞きながら、私の指の細さを思い浮かべて、ナイフで一削りずつ心を込めて磨いてくれた、世界でたった一つの宝物。
「……はい」
掠れた声で、私は何度も頷いた。
「はい……っ、喜んで……! 私を、あなたの妻にしてください……!」
ルーファスの顔に、破顔と呼ぶにふさわしい、見たこともないほど眩しい笑顔が咲いた。
彼は震える手で細い方の木製の指輪を小箱から取り出し、私の左手の薬指へと滑り込ませた。
――すっと、吸い付くように馴染んだ。
まるで最初から私の指のために存在していたかのように、狂いのない完璧な大きさ。
木のぬくもりが、肌を通じて、私の胸の奥深くまで温かく染み渡っていく。
「……似合っている」
「世界で一番……贅沢で、美しい指輪ですわ」
「なら、もう一つは俺がもらってもいいか」
差し出された大きな左手に、今度は私が太い方の指輪を嵌めた。傷だらけの薬指に飴色の木が収まると、ルーファスは何度も確かめるように手を開いたり閉じたりした。
私が涙を拭いながら微笑むと、ルーファスはたまらないといったように私を抱き寄せ、唇を重ねてきた。
春の柔らかな風が、二人の髪を優しく揺らす。
庭のオニキスが、祝福するように「ぐるるるぅ」と低く喉を鳴らした。
悪役令嬢としての役目も、他人のための人生も、もうどこにもない。
薬指に宿る温かな木の花のように、私はこの名もなき森で、私だけの本当の幸福を手に入れたのだ。
その日の夕暮れ、オニキスと森の木々だけを証人に、私たちは互いの名を呼び、これからの生を共にすると誓った。豪華な式典はなくても、それで十分だった。




