第16話:スープが冷めないうちに
木の指輪を交換し、森の木々の前で夫婦の誓いを交わしてから、いくつかの穏やかな朝が過ぎた。
名もなき森の朝は、いつだって世界で一番静かに始まる。
カーテンを開けると、朝もやの立ち込める森の木々の間から、生まれたばかりの柔らかな金色の陽光が差し込んできた。
庭の若草にはびっしりと朝露が宿り、光を浴びて無数の真珠のように瞬いている。
窓を少し開けると、ひんやりとした朝の空気とともに、庭に植えたばかりのスペアミントと湿った土の清々しい香りが部屋いっぱいに流れ込んできた。
「……ふふ、いいお天気」
私は麻のエプロンの紐をきゅっと結び直した。
左手を動かすたび、薬指に嵌められた木製の指輪が、朝の光を受けて飴色に温かく輝く。
オニキスの鱗とカモミールの花が手彫りされた、世界にひとつだけの私の宝物。肌にすっかり馴染んだその温もりに触れるだけで、胸の奥からぽかぽかと力が湧いてくるようだった。
裏庭へ視線を向けると、オニキスが気持ちよさそうに大きな黒い翼をゆっくりとはためかせ、朝の伸びをしていた。
私の視線に気づいたのか、琥珀色の大きな瞳を細め、「ぐるるぅ」と甘えたような低い喉鳴らしを返してくる。
今やこの森の守り神となった黒竜は、毎朝私が庭に出るのを一番に待っているのだ。
「オニキス、おはよう。朝のおやつの干し肉は、後で持って行ってあげるわね」
手を振って声をかけると、オニキスは満足そうに大きく一度頷き、庭の木陰へ器用に身を丸めた。
私は台所へ戻り、朝食の仕上げに取り掛かった。
石造りの暖炉では、よく乾いた樫の薪がパチパチと快い音を立てて燃えている。
その上にかけられた鉄鍋の中では、角切りの干し肉と、冬越しして甘みの増した根菜が、ことことと心地よいリズムで煮込まれていた。
塩と少しの胡椒、そして摘みたてのタイムの小枝を一筋。
木ベラでゆっくりとかき混ぜると、食欲をそそる香ばしい湯気がふわりと立ち上った。
オーブン代わりの鉄の天板から、今朝焼き上げたばかりの素朴な丸パンを取り出す。
外側はこんがりと香ばしい狐色に焼け、ナイフを入れると、パリッという小気味のいい音とともに、小麦の甘い蒸気が弾けた。
バタン、と玄関の重い木扉が開く音がした。
「戻ったぞ、コリンナ」
野太く、けれど耳に心地よい低音。
振り返ると、腕いっぱいに抱えた朝採れの野菜と薪を抱えたルーファスが、土間に立っていた。
白い麻シャツの袖をまくり、額にはうっすらと朝露のような汗が光っている。
「お帰りなさい、ルーファスさん。畑はどうでした?」
「順調だ。四日前に蒔いた蕪の芽が、ようやく出始めている。……それから、小川のほとりに野山葵が生えていたから採ってきた。今夜の肉料理に使えるだろう」
「まあ、素敵。ありがとう、助かりますわ」
ルーファスは薪を薪棚へ綺麗に揃えて積み上げ、野菜を水桶に浸すと、井戸水で丁寧に手を洗った。
その一連の動作には、かつて戦場で人を斬るために張り詰めていた殺気など爪の先ほども残っていない。
ただ、この家と、この庭と、私との生活を慈しむ、穏やかな一人の男の手だった。
「パンが焼けたところよ。冷めないうちに朝食にしましょう」
「ああ。いい匂いが外まで漂っていた」
ルーファスが椅子を引き、二人で小さな木のテーブルを挟んで向かい合って座る。
テーブルの中央には、焼きたての丸パンと、野苺のジャム。
そして、並々と注がれた具だくさんの温かいスープの器が二つ。
「いただきます」
二人で声を合わせ、木のスプーンを手にする。
ルーファスがスープを一口、口に運んだ。
そして、出会ったあの日と同じように――いや、あの日よりもずっと深く、噛み締めるように目を細めて呟いた。
「……美味い」
「ふふ。今日の人参は、あなたが丁寧に皮を剥いてくれたものですものね」
「お前の味付けがいいんだ。……俺はただ、包丁を握っただけにすぎない」
少し照れくさそうに視線を逸らしながら、ルーファスはパンを千切ってスープに浸し、口いっぱいに頬張った。
その美味しそうに食べる横顔を見ているだけで、私の胸は甘い幸福感で満たされていく。
かつて、王宮の大広間で冷たい視線を浴びていた頃の記憶が、ふと遠い昔の夢のように脳裏をかすめた。
宝石で着飾り、誰の心にも届かない社交辞令を並べ、冷たい視線に晒されながら完璧な仮面を貼り付けていた日々。
あの頃の私は、温かいスープを「美味しい」と思う余裕すらなかった。誰かと並んで食べる朝食の尊さも、泥に汚れた手の温もりも、何ひとつ知らなかったのだ。
アウグスト殿下も、リリィ様も、王都の人々も、今はもう遠い国の出来事のように感じられる。
彼らが失ったものに気づいてどれほど後悔していようと、私はもう二度と振り返ることはない。
なぜなら、私の世界は、もうここにあるのだから。
窓の外を見上げると、どこまでも澄み渡る五月の青空が広がっていた。
風が渡り、森の木々がサワサワと祝福するようにさざめいている。
「コリンナ」
ふいに名前を呼ばれて視線を戻すと、ルーファスが愛おしそうに私を見つめていた。
その逞しい指先が、テーブルの上で私の左手にそっと重ねられる。
木製の指輪同士がカチリと小さく触れ合い、互いの体温がじんわりと伝わってきた。
「今日も……いい天気だな」
「ええ、本当に」
私は満面の笑みを浮かべ、彼の手を優しく握り返した。
「午後は、裏庭のラベンダーを植え替えましょうね。オニキスのお昼寝用の場所も、もう少し広げてあげなくては」
「ああ。丸太を運んで、日除けの屋根を作ってやる」
「楽しみですね、旦那様」
「……っ」
『旦那様』という響きに、ルーファスが耳を赤くして咳払いをした。
出会ってから何か月経っても、この人はこういうところで驚くほど初心で、愛らしい。
悪役令嬢としてのお役目は、全部おしまい。
誰かの物語の脇役を務める日々は、あの大広間で幕を下ろした。
名もなき森の、小さな石造りの小屋。
ここは、誰も何者でもなくていい場所。
ただのコリンナと、ただのルーファスが、手を取り合って生きていく場所。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
「ああ。お前もな」
木の指輪同士が、テーブルの上で小さく触れ合った。
その時、窓の外から「ぐるるぅ」と控えめな催促が聞こえた。
見ると、オニキスが巨大な鼻先だけを窓辺へ寄せ、約束した干し肉をまだかと琥珀色の瞳で訴えている。
「ふふ。忘れていませんよ、今持っていくわ」
「俺が行く。お前はスープを食べていろ」
「では、半分ずつにしましょう」
立ち上がろうとした私たちの手がぶつかり、同時に笑い声がこぼれた。
王妃になるための朝ではない。
誰かの物語を進めるための朝でもない。
大切な人と温かいスープを食べ、黒竜の朝ごはんを心配するための朝だ。
それで、十分だった。
世界で一番静かな場所は、今日もほんの少しだけ賑やかだった。




