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悪役令嬢のお役目は終わりましたので、名もなき森で暮らします  作者: 九葉(くずは)


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第8話:置き去りにされた王都の悲鳴

 名もなき森に初雪が降っていたその頃。

 王都の中心にそびえる王宮の執務室は、冬の寒さとは無縁の、狂気じみた熱気と怒号に包まれていた。


「――なぜだ! なぜまだ隣国への通商条約の修正案が仕上がっていないのだ!」


 ドガァンッ! と重厚なマホガニーの机を殴りつける音が響く。

 怒声を張り上げているのは、王太子アウグストだった。


 かつて夜会の壇上で誇らしげに婚約破棄を宣言した美貌の青年は、今や見る影もない。

 目の下には濃い隈が張り付き、手入れの行き届いていた金髪は乱れ、上等な絹のシャツにはインクの染みが幾重にも飛び散っていた。


 彼の眼前には、天井に届かんばかりに積み上げられた羊皮紙の山。

 その周囲で、宮廷文官たちが青ざめた顔で平伏していた。


「も、申し訳ございません、殿下! 隣国の財務大臣から提示された関税比率の計算式が複雑を極めておりまして……我が方の専門官が総出で検算しておりますが、過去十年の特例免税措置との辻褄がどうしても合わず……!」


「無能どもが! 以前はこのような書類、三日もあれば決裁に回ってきていたではないか! なぜ今になって滞る!」


「そ、それは……っ!」


 文官長が額を床に擦り付けながら、消え入りそうな声で絞り出した。


「……以前は、オルデンブルク公爵令嬢――コリンナ様が、各部署から上がる数字の食い違いを事前に洗い出し、条約文の推敲と部門間の調整まで済ませておられたのです……! 私どもは、コリンナ様が朱筆で論点を整理された案をもとに最終検算を行い、殿下の御璽をいただいておりましたので……!」


「なっ……」


 アウグストの喉が、ヒュッと引きつった音を立てた。


「ば、馬鹿なことを言うな! あの女が一人でこれほど膨大な公務をこなしていたはずがないだろう! 公爵家の権力を使って、裏で大勢の家庭教師にやらせていたに決まっている!」


「いいえ、殿下! コリンナ様の手書きの注釈書は残っておりますが、隣国の古い商法規から各貴族領の通行税まで、複数の部署をまたぐ例外処理が一つに整理されております! 引き継ぐには相応の時間が必要なのです!」


「ぐ……っ、だ、だが、他の仕事はどうなのだ! 神殿への寄進の調整や、冬の貧民救済の備蓄穀物の配分は……!」


「そちらも滞っております! 神殿との備蓄穀物の配分覚書は、毎年コリンナ様が双方の権限と数量を調整して更新しておられました。今年は引き継ぎが済まず、穀物庫を開けるための合意そのものが止まっています! 大貴族の派閥争いの仲裁も、コリンナ様の根回しがなくなった途端に再燃し、昨日の貴族院では罵倒の末に決闘騒ぎが起きました!」


「お、おい……嘘だろう……?」


 アウグストの顔から、急速に血の気が引いていった。


 コリンナがいた頃、王太子としての彼の仕事は信じられないほど順風満帆だった。

 どんな難解な書類も、要点だけを簡潔にまとめた小札が添えられて机に置かれていた。

 気難しい老貴族たちも、なぜかアウグストに対しては穏やかに微笑み、法案に賛成してくれた。

 アウグストは本気で思っていたのだ。「自分には生まれながら王たる才覚があり、優秀だからすべてが上手くいっている」と。


 コリンナの「殿下、こちらの書類の確認をお願いいたします」「殿下、神殿長へのお返事は今日中にお出しください」という口うるさい言葉を、傲慢な女の嫉妬と束縛だと鬱陶しがっていた。

 彼女を追い出し、可憐で素直なリリィを隣に置けば、もっと華やかで自由な宮廷生活が待っているはずだった。


「で、殿下ぁ……っ」


 執務室の片隅のソファから、甘ったるい泣き声が響いた。

 華美なレースのドレスを着たリリィが、涙を浮かべてアウグストにすがりついてくる。


「私、頭が痛くて……こんな難しい紙のお山、見てるだけで目眩がしちゃいます……。殿下、お散歩に連れていってくださいませんか? リリィ、殿下に優しく抱きしめてほしいです……」


 以前なら、「可愛い我が花よ」と甘やかして抱き寄せたはずの声だった。

 だが今、極度の睡眠不足と疲労に苛まれるアウグストの耳には、その甲高い声が耳障りな雑音にしか聞こえなかった。


「……黙っていろ!」


「え……っ?」


 アウグストは思わずリリィの腕を乱暴に振り払った。

 床にへたり込んだリリィが、信じられないものを見る目でアウグストを見上げる。


「お前は『コリンナ様の真似事くらい私にもできます、殿下をお支えします』と言ったはずだ! それがどうだ、茶会で無駄金を使い込むだけで、書類の一枚も読めないではないか! これ以上私の邪魔をするな!」


「ひ、酷い……っ! 殿下が私を守ってくださるって言ったのに……! うわぁぁぁん!」


 耳を塞ぎたくなるようなリリィの泣き声が部屋に響き渡る。

 文官たちは軽蔑に満ちた冷ややかな視線をリリィに向け、そしてアウグストに対しても失望の色を隠そうとしなかった。


 その時、執務室の重い扉が勢いよく開け放たれた。


「アウグスト! 貴様、何ということをしてくれたのだ!」


 現れたのは、現国王――アウグストの実父だった。

 怒りで顔を真っ赤にした国王の後ろには、オルデンブルク公爵(コリンナの父)の姿もあった。

 ただし、公爵の表情は怒りではなく、冷え切った絶対零度の無表情だった。


「父上……っ!」


「先ほど隣国の特使から抗議文が届いた! 『我が国を愚弄する気か』と、同盟破棄も辞さない構えだ! すべてはお前がコリンナ嬢を身勝手な言いがかりで追放したことが発端だと、宰相から報告を受けたぞ!」


「ち、違います、父上! あれはあの女が傲慢で、リリィを虐める悪女だったからで……!」


「黙れ愚か者が!」


 国王の一喝が、執務室を震わせた。


「オルデンブルク公爵令嬢がどれほどの国宝であったか、貴様は爪の先ほども理解していなかったのか! 彼女は我が国の法と財政の要であった! 公爵家からもすでに正式な絶縁状が届いておる。『娘を罪人扱いした王家には、これ以上の財政支援は行わない』とな!」


 アウグストは愕然として、オルデンブルク公爵を見つめた。

 公爵は、かつて娘を家の責務を担う者としてしか見てこなかった厳格な貴族だった。だが、家名も相続権も置いていくという娘の短い手紙を読み、自分もまた彼女を役目で縛っていたのだと、遅すぎるほどに思い知らされていた。今は冷え切った瞳でアウグストを見下ろしている。


「殿下。我が娘コリンナは、公爵家に残していた私物と相続権を放棄し、一枚の置き手紙だけを残して姿を消しました。『オルデンブルク家の皆様、長い間お世話になりました。これからはご迷惑をおかけいたしません』と……。あの子は、貴方に虐げられながらも、王家と我が家の面目を守るためにたった一人で耐え抜いていたのです」


「そ、そんな……」


「すぐにコリンナ嬢の行方を探せ!」

 国王がアウグストの胸倉を掴まんばかりに叫んだ。

「ただし、二度と命令口調で呼び戻そうなどと思うな。王家の正式な使者を立て、まず非礼を詫びるのだ。その上で、助言だけでも願えないか頭を下げよ。このままでは年越しまでに国政の混乱がさらに深刻になるぞ!」


「つ、連れ戻せと言われても……あいつは一体どこへ行ったのだ!? 実家にもいないのだろう!?」


 アウグストの悲鳴のような問いに、部屋の誰も答えることができなかった。


 誰も、知らないのだ。

 あれほど完璧で、常に王宮の中心にいた少女が、私生活で何を好み、誰と親しみ、どんな夢を持っていたのかを、アウグストを含めた誰一人として気にも留めていなかったのだから。


「コリンナ……っ、嘘だろう、どこにいるんだ……! 戻ってこい、戻ってくれば許してやる、元通り王妃にしてやるから……っ!」


 書類の山に囲まれた薄暗い部屋で、アウグストは頭を抱えて崩れ落ちた。

 かつて彼が「お前の顔など二度と見たくない」と吐き捨てた少女の名前を、今さら哀願するように叫びながら。


 だが、その声が、遠く離れた静寂の森へ届くことは二度とない。

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