第7話:冷えた指先と手作りの砂糖菓子
ルーファスがこの森で暮らし始めてから、さらに数週間が過ぎた。
名もなき森に、冬の訪れを告げる初雪が舞ったのは、十一月も半ばを過ぎた朝のことだった。
目を覚まして窓を開けると、外の世界は音もなく白く塗り替えられていた。
深い木々の梢に粉砂糖のような雪がうっすらと積もり、吐く息がふわりと白い煙になって空気に溶けていく。
庭の隅では、オニキスが珍しそうに鼻先を白く染めながら、降ってくる雪片をパクパクと口で捕まえようとしていた。
帝国軍を震え上がらせた神話の黒竜が、冬の訪れにはしゃぐ子犬のように尻尾を左右に振っている姿は、いつ見ても心が和む。
「……うう、冷たい」
けれど、風情を楽しんでばかりもいられない。
生活をするということは、寒さとも向き合うということだ。
私は袖をまくり、裏庭の井戸で朝の仕込み用の根菜を洗っていた。
木桶に汲み上げた地下水は、刃物のように冷たい。泥を落とすために泥だらけの蕪を水の中で擦っていると、ものの数分で指先の感覚が麻痺してきた。
赤く腫れ上がった自分の指先に、はあ、と息を吹きかける。けれど、冷気にかき消されて一瞬で冷え切ってしまう。
「あと三本……洗ってしまわないと」
かじかむ手で再び冷水に手を突っ込もうとした、その時だった。
「――何を馬鹿なことをしている」
頭上から降ってきた低い声とともに、ぐい、と私の腕が引き戻された。
「あっ……」
驚いて見上げると、裏山から戻ってきたばかりのルーファスが、手斧を腰に下げた姿で立っていた。
眉間に深い皺を寄せ、あからさまに不機嫌そうな顔をしている。
「ルーファスさん、お帰りなさい。薪の調達、ありがとうございます。でも、今ちょうど蕪を――」
「言ったはずだ。冷水を使う仕事は俺に言えと」
「だって、朝食の準備ですし、あなたはお怪我も治ったばかりで……」
「治ったから薪を背負って山を越えてきたんだろうが」
言い返す言葉に詰まる私を見て、ルーファスは短く舌打ちをした。
そして、私の手から泥のついた蕪を奪い取って木桶の脇へ置くと、そのまま私の両手首を掴んだのだ。
「え……?」
声が喉の奥で詰まった。
彼が自らの革手袋を口で器用に引き抜いて雪の上に落とし、剥き出しになった大きな手のひらで、私の両手を包み込んできたからだ。
――あたたかい。
薪を割り、山を歩いてきたばかりの彼の掌は、信じられないほど熱を持っていた。
剣ダコと古傷で覆われた、ゴツゴツとした硬い手のひら。
それが、凍えきって赤くなった私の小さな指先を、すっぽりと覆い隠すようにして温めていく。
「……っ」
じわりと、痺れていた指先に熱が染み渡っていく。
あまりの温度差に皮膚がじんじんと疼き、それと同時に、トクン、と胸の奥が不自然に跳ねた。
近い。
ルーファスの逞しい胸板が、私の目の前数寸のところにある。
雪の匂いと、乾いた木屑の匂い、そして彼自身の微かな体温の匂いが、鼻先をくすぐった。
「ルーファス、さん……あの、もう大丈夫です。温まりましたから……」
恥ずかしさのあまり手を引こうとしたけれど、彼の大きな指は、決して痛くはない、けれど逃げられない強さで私の手を包み込んだままだ。
「嘘をつくな。まだ氷のように冷たい」
「で、でも……!」
「……大人しくしていろ」
低く、命令するような声音。
けれど、その声は微かに震えていた。
恐る恐る視線を上げると、ルーファスは私の手元をじっと見つめたまま、顎を固く引き結んでいた。
耳の先が、寒さのせいだけとは思えないほど、鮮やかに赤く染まっている。
彼もまた、緊張しているのだ。
人を斬るために磨き上げられたその手で、誰かの凍えた手を温めるという行為に、戸惑っている。
王宮にいた頃、殿下から手を握られたことなど、儀礼的なダンスの時くらいしかなかった。それも、絹の手袋越しに、冷ややかな義務感で触れられるだけ。
こんな風に、ただ私を気遣うためだけに素肌の温もりを分けてもらった記憶は、少なくとも物心ついてから一度もなかった。
(……どうしてかしら)
手先だけでなく、胸の奥までカッと熱くなっていく。
心臓が早鐘を打ち、視界がチカチカとするような、生まれて初めて味わう甘い息苦しさ。
やがて、私の指先が完全に赤みを引き、熱を取り戻したのを見届けると、ルーファスはようやく、躊躇いがちに私の手を解放した。
「……残りの蕪は、俺が洗う。お前は中に入って火に当たっていろ」
ぶっきらぼうに背を向けようとした彼が、ふと思い出したように足を止めた。
そして、外套の深いポケットをまさぐると、手のひらに収まるほどの小さな紙包みを取り出した。
「……これを受け取れ」
「これは……?」
「昨日、峠の麓の交易村へ塩を買いに行った時に……そこで見かけた」
私の手のひらに、ぽんと載せられた油紙の包み。
包みを開けると、中から現れたのは、親指ほどの大きさの、透き通った琥珀色の粒だった。
干した野苺の果実を、煮詰めた甜菜糖の糖衣で厚く包んだ、素朴な手作りの砂糖菓子。
「……甘いものは、嫌いか」
ルーファスはそっぽを向いたまま、ボソリと呟いた。
貴族が口にするような、金粉の乗った繊細な砂糖細工ではない。村の老婆が鍋で練って作ったような、不格好で飾り気のないお菓子。
――けれど。
「……大好きです」
私の口から、零れ落ちるように言葉が出た。
「私、甘いものが大好きです。それに……こんなふうに、誰かが私のために選んでくれたお菓子は初めてです」
私が包みを両手で抱きしめて顔を上げると、ルーファスは目を見張り、それから気恥ずかしそうに口元を手で覆った。
紫紺の瞳が、冬の光を浴びて柔らかく揺れている。
「……なら、いい。中に入って食え。俺も、すぐに終わらせて戻る」
「はい。温かいスープを温め直しておきますね」
小屋へ戻る足取りが、雪を踏むたびにキュッ、キュッと軽快な音を立てた。
室内の暖炉の前に座り、包みから砂糖菓子を一粒、口に放り込む。
カリリ、と小気味のいい音がして、素朴な甘みと、野苺の甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がった。
掌には、まだルーファスの大きな手の熱が、じんわりと残っている。
「……あまい」
ぽつりと呟いた自分の頬が、暖炉の火よりも熱くなっていることに気づいて、私は両手で顔を覆った。
冷たい雪が降り積もる森の片隅で。
誰にも知られない二人の距離が、確かに、もう戻れないところまで近づいていた。




