第6話:役目を持たない名前
午後から降り始めた雨は、夕暮れになっても止む気配がなかった。
数日前の嵐のような凶暴さはなく、ただ静かに、森の木々を濡らす柔らかな雨。
屋根を叩くシトシトという雨音と、パチパチと時折小さく爆ぜる暖炉の火の音だけが、薄暗くなり始めた室内に満ちている。
庭の軒下では、雨を避けたオニキスが体を丸め、規則正しい寝息を立てていた。
外仕事ができないこんな日は、室内の手仕事が一番だ。
私は木製の丸テーブルに座り、数日前に摘んで陰干ししておいたタイムとセージの葉を、一本ずつ茎から外して木箱に仕分ける作業をしていた。
私の正面――普段なら落ち着きなく庭の様子を見に行きそうな大男が、神妙な顔つきで椅子に腰掛けている。
「……こう、か」
ルーファスは、無骨で傷だらけの大きな指先で、壊れ物を扱うように繊細にハーブの小枝をつまんでいた。
剣を握るためにあるような手のひらが、薬草の小さな葉をちぎらないよう、慎重に動いている。その真剣すぎる横顔がどこか可笑しくて、私は手元を隠しながらくすりと笑った。
「笑うな。……不器用なのは自覚している」
「笑ってなどいませんよ。とても丁寧だと思って感心していたのです。騎士様の手とは思えませんね」
「……騎士、か」
ルーファスがふと手を止め、自らの手のひらを見つめた。
古傷の残る節くれだった指。
その紫紺の瞳に、ふわりと冷たい影が差したのを、私は見逃さなかった。
「……俺は、十四の時から戦場にいた」
雨音に溶け込むような、低く静かな声だった。
いつも言葉少なな彼が、自ら過去を語り始めたことに、私は驚きながらも作業の手を緩め、黙って耳を傾けた。
「黒竜騎士団の長などと持て囃されてはいたが、要は宮廷の貴族どもにとって都合のいい猛獣使いだ。敵国を焼き、反乱分子を潰し、領土を広げる……。オニキスの力さえあれば、誰もが俺を崇め、そして同時に恐れて遠ざかった」
ルーファスは自嘲するように口元を歪めた。
「だが、戦争が終われば用済みだ。巨大な竜を抱える騎士団など、平和な宮廷では金食い虫の脅威でしかない。軍縮という名の謀略で部下たちを分散させられ、最後の任務では、あらかじめ仕組まれていた敵の伏兵の罠に放り込まれた」
「……それが、あの嵐の夜の傷ですか」
「ああ。敵を全滅させ、どうにか逃げ延びたが……オニキスは深手を負い、俺の身体も限界だった。帝都の連中は、俺たちが死ねばそれで満足だったのだろう。だから……もう、どうでもよくなった」
ルーファスはハーブの葉を指先から零れ落とし、力なく背もたれに寄りかかった。
「英雄として死ぬのも、兵器として処分されるのも、もううんざりだった。誰も俺自身の言葉など聞いていない。誰もが『黒竜騎士団長ルーファス』という看板しか見ていなかった。……だから、あそこで死ぬのが、俺にとって唯一の自由だと思っていたんだ」
絞り出すような告白。
その言葉の裏にある絶望の深さに、私の胸が締め付けられるように痛んだ。
彼もまた、私と同じだったのだ。
周囲が押し付ける『役目』に縛られ、その役目を完璧に演じることだけを求められ、本当の自分をすり減らして生きてきた人間。
「……ルーファスさん」
私が名前を呼ぶと、彼は自嘲の笑みを浮かべたまま、視線を向けてきた。
「軽蔑したか。人を殺し、国を守る役目からも逃げ出した、ただの腰抜けだと」
「いいえ、全く」
私は迷わず首を横に振った。
そして、手元に残っていたタイムの小枝を箱に収め、彼を真っ直ぐに見つめた。
「私も、同じでしたから」
「……お前が?」
「ええ。私は王都で、ずっと『役目』を演じ続けていました」
ぽつり、ぽつりと、私もまた自分の胸の奥に閉じ込めていた記憶を紡ぎ出した。
「名門公爵家に生まれ、物心ついた時から王太子の婚約者として育てられました。周囲が望むのは、完璧で、隙がなく、感情を見せない王妃の器。殿下が他の女性に心を奪われてからは、私は誰も傷つけずに婚約を終わらせるため、二人にとって都合のいい『冷たい婚約者』まで演じることにしたのです」
ルーファスが息を呑む気配がした。
「十年間、王太子妃になるための役目を果たし続け、最後は嫌われ役まで引き受けました。夜会の真ん中で婚約破棄を告げられた瞬間、殿下の周囲にいた人々は私を蔑み、嘲笑していましたわ。……でも、私は心の底から安心していたのです。『ああ、これでやっと、私の役目は終わった』と」
暖炉の火が、パチリと爆ぜた。
外の雨は、なおもしとしとと大地を濡らしている。
「国を守る英雄も、殿下に捨てられた悪役令嬢も……所詮は、他人が勝手に書いた筋書きに過ぎません。その看板を背負わされて、傷だらけになってまで誰かの期待に応え続ける義務なんて、最初からどこにもなかったのです」
私は立ち上がり、湯気を立てる鉄鍋から、淹れたての温かいカモミールティーを二つの木製カップに注いだ。
ひとつをルーファスの前にコト、と置く。
「……なぜ、俺にそうまでしてくれる」
ルーファスが、カップから立ち上る湯気を見つめながら、途切れそうな声で尋ねた。
「俺は、多くの血を流してきた男だ。英雄の皮を剥げば、ただの人殺しかもしれないんだぞ」
「そんな過去、私には関係ありません」
私は自分のカップを両手で包み、窓の外の静かな雨を見つめた。
「私が知っているのは、私の庭のハーブを踏まないように大股で歩くあなたです。肋骨が痛むくせに薪を割ろうとする頑固なあなたで、傷ついた竜の頭を優しく撫でるあなたで……そして、人参の皮を信じられないほど丁寧に剥いてくれる、優しいあなただけです」
「…………」
「ここにあるのは、役目を持たない、ただの名前だけです。……コリンナと、ルーファス。それで十分じゃありませんか?」
振り返ると、ルーファスは目を見開いたまま、固まっていた。
その紫紺の瞳が、暖炉の火を反射して、かすかに潤んでいるように見えた。
彼は震える手で木製のカップを持ち上げ、ゆっくりと口をつけた。
そして、ふう、と深く長い息を吐き出した。
それは、彼が生まれて初めて、鎧の重みから完全に解放された瞬間の息吹のようだった。
「……ああ」
低く、掠れた、けれど力強い声。
「……美味いな、コリンナ」
「ええ。雨の日のカモミールは、格別ですから」
名もなき森の小さな小屋の中で。
役目を脱ぎ捨てた二人の魂が、雨音に包まれながら、静かに、そして確かに重なり合っていた。




