第5話:スープと薪割りと黒い竜
墜落の夜から四日が過ぎた。
竜騎士という生き物の生命力は、常識を遥かに超えているらしい。
あれほどの深手を負い、高熱にうなされていたはずの男――ルーファスは、四日目の朝には自力でベッドから起き上がり、足元こそ覚束ないものの、ゆっくりと歩けるまでになっていた。
そして五日目の朝。
パコォン、と小気味のいい乾いた音が、森の静寂を破った。
「……何の音かしら?」
井戸で汲んできた水桶を両手に提げて裏庭へ回った私は、思わず足を止めて目を丸くした。
陽光が差し込む庭の片隅。
包帯を巻いた胸元を晒したまま、袖をまくり上げた大男が、手斧を振り下ろしているところだった。
パコォンッ!
見事な一撃で、硬い樫の丸太が真っ二つに割れ、両脇へと綺麗に転がる。
木屑が朝の光の中に舞い散り、男の額には薄っすらと汗が光っていた。
「……何をしているのですか、怪我人さん」
私が冷ややかに声をかけると、男は斧を止めて振り返った。
紫紺の瞳が私を捉え、気まずそうにわずかに泳ぐ。
「……見ての通り、薪割りだ」
「見れば分かります。私が聞いているのは、なぜ肋骨にヒビが入っている人間が、全体重を使うような労働をしているのか、ということです」
水桶を地面に置き、腰に手を当てて睨みつけると、男は無骨な手で自分の首の後ろを擦った。
「……タダ飯を食らい続ける趣味はない。傷の手当て、着替え、三度の食事……。恩を売られたまま、何もせず寝転がっていられるほど、俺の面の皮は厚くない」
「だからと言って、傷口が開いてまた血まみれになられたら、私の手当ての手間が二倍になるだけです」
「傷口は開いていない」
「強がりはおやめなさい。包帯の端に、さっきまではなかった赤い染みが浮いています」
「っ……」
痛いところを突かれたのか、男が息を詰まらせた。
公爵令嬢時代、夜会の社交辞令や宮廷貴族たちの嘘を見抜き続けてきた私の観察眼を甘く見てもらっては困る。
男は悔しそうに眉を寄せ、斧を立てかけて地面を見つめた。
捨てられた大型犬のような、なんとも言えない頑なな沈黙。
この人はきっと、誰かに無条件で施しを受けることに慣れていないのだ。何か役に立っていなければ、ここに居場所がないと怯えているようにも見えた。
私は小さく息を吐き出し、歩み寄って彼の大きな手から手斧を取り上げた。
「……追い出す気か」
低く、どこか諦めを含んだ声。
私は呆れたように首を横に振った。
「追い出しません。ですが、私の家には私の決まりがあります。居候を決め込むなら、私の指示に従ってください」
「指示……?」
「はい。まず、今日は薪割り禁止です。包帯に染みが出なくなってからも、一日に五本まで。それ以上は私が許可しません」
「……少なすぎる」
「患者の分際で口答えしないこと。その代わり――」
私は母屋の裏手を指差した。
「野菜の皮剥きと、裏庭の雑草抜きをお願いします。それから、あの子のブラッシングも」
私が指差した先――日当たりの良い草地の上で、巨大な黒竜オニキスが、気持ちよさそうに大の字になって日向ぼっこをしていた。
包帯を巻かれた右翼を器用に折りたたみ、朝の陽だまりの中で「ぐぅ……ふしゅぅ……」と盛大にいびきをかいている。
オニキスは私の足音に気づくと、パチリと琥珀色の瞳を開けた。
そして巨体を揺らしてむくりと起き上がると、ズシ、ズシと地響きを立ててこちらへ歩み寄り、巨大な鼻先を私の腰のあたりにすり寄せてきたのだ。
「ぐるるるるぅ……」
猫が喉を鳴らすような重低音が響き渡る。
私は笑って、その硬い黒鱗の鼻先を両手で優しく撫でてやった。
「おはよう、いい子ね。今日も傷口は痛まない?」
「ぐぅん」
嬉しそうに目を細め、尻尾の先をパタパタと振る黒竜。
その光景を見ていた男が、額を押さえて天を仰いだ。
「……オニキス。お前、帝国最強の厄災と恐れられた黒竜としての誇りはどこへやった」
「誇りより、美味しい干し肉と優しい手当ての方が大事に決まっています。動物は人間よりもずっと素直ですよ」
「……動物だと? そいつは並の城壁なら一撃で粉砕する古代竜だぞ」
「あら、そんな物騒な特技があっても、うちの庭では雑草を踏み荒らさない賢い子ですわね?」
私がオニキスの顎の下を掻いてやると、竜は恍惚とした顔で天を仰ぎ、気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
男は完全に毒気を抜かれたようで、深いため息をついた。
「……分かった。お前の言う通りにする」
「よろしい。それでは、午前の労働をお願いしますね、ルーファスさん」
男が、ぴたりと動きを止めた。
紫紺の瞳が、驚愕に見開かれて私を凝視する。
「……なぜ、その名を」
「あなたの脱ぎ捨てた鎧の胸当ての裏に、小さく彫られていました。『ルーファス・ハミルトン』と。名乗る必要はないと申し上げましたが、いつまでも『怪我人さん』と呼ぶのも不便ですから」
私が悪戯っぽく微笑むと、男――ルーファスは、どこか気恥ずかしそうに視線を逸らした。
頬がかすかに赤らんでいるのは、朝の陽射しのせいだけではないはずだ。
「……コリンナだ」
「え?」
「お前の名も、部屋の棚にあった植物採集帳の表紙に書いてあった。『コリンナ』と」
ぶっきらぼうに告げられた自分の名前に、今度は私の胸が小さく跳ねた。
『コリンナ・オルデンブルク公爵令嬢』でも、『アウグスト王太子の婚約者』でもない。
ただの、コリンナ。
「……ふふ。お互い様でしたね」
私が吹き出すと、ルーファスも諦めたように、ほんのわずかだけ口元を緩めた。
それは、彼が初めて見せた、年相応の青年の表情だった。
その日の昼食は、ルーファスが不器用に、けれど驚くほど丁寧に皮を剥いてくれた人参と芋を入れたスープだった。
パチパチと薪が爆ぜる音と、庭で眠る竜の穏やかな寝息。
誰かの命令で動くのではない、自分たちの手で作り出すささやかな生活の匂いが、名もなき森の小屋に、確かに根を下ろし始めていた。




