第4話:ただの怪我人と、ただの家主
鳥のさえずりで、男――ルーファス・ハミルトンは意識を取り戻した。
(……ここは、どこだ)
重い瞼を押し上げると、まず目に飛び込んできたのは、煤けた高い木製の天井だった。
隙間から射し込む朝の光の筋が、室内に漂う微細な埃をキラキラと照らし出している。
湿った冷たい泥の感触はない。
代わりに背中を支えているのは、藁の匂いがする素朴だが清潔なマットレスと、肌触りの良い麻の毛布だった。
(俺は……生きているのか?)
身を起こそうとした瞬間、胸から脇腹にかけて、焼け付くような激痛が走った。
「ぐっ……!」
思わず短い呻き声が漏れる。
見下ろすと、身につけていたはずの重厚な黒鉄の鎧は綺麗に脱がされていた。
代わりに着せられているのは、仕立てのいい男物の白い木綿のシャツ。裂傷を負っていた胸や腕には、丁寧に軟膏が塗られ、清潔な白い晒布が狂いなく巻かれていた。
野戦病院の雑な手当てではない。驚くほど繊細で、手慣れた処置だ。王侯貴族の娘が救護院の視察や薬草学まで学ぶことを、ルーファスは知る由もなかった。
そこで昨夜の記憶が、濁流のように脳裏へ蘇ってきた。
激しい嵐。折れたオニキスの翼。
死を覚悟して墜落した、見知らぬ森の広場。
そして――雨の中、泥まみれになりながら、自分の手を引いた小さな女の手。
『死ぬのはあなたの勝手ですが、私の庭を血で汚さないでいただけますか』
呆気にとられるほど毅然とした、あの声。
(オニキスは……!?)
相棒の無事を確認しようと、痛む身体を無理やり引きずって窓辺へ視線を向けたルーファスは、そこで信じられない光景を目にして息を呑んだ。
開け放たれた窓の向こう。
雨上がりの青空の下、陽光を浴びる庭の草地。
そこに、山のように巨大な漆黒の竜――帝国軍が『黒き破壊神』と恐れる古竜オニキスが、地面にぺたりと腹這いになっていた。
折れていたはずの右翼には太い枝を組んだ添え木が当てられ、晒布が幾重にも巻かれている。オニキス自身が傷ついた翼を地面へ低く伏せ、手当てを受ける姿勢を取っているからこそできる処置だった。
そして、その巨大な鼻先のすぐ前に。
昨夜の少女が、淡い金色の髪を後ろで一つに束ね、麻のエプロン姿で立っていた。
「はい、いい子ですね。薬を塗り直す間、じっとしていてくださいね」
少女はオニキスの眉間を素手でぽんぽんと撫で、大きな木桶から取り出した干し肉の塊を鼻先に差し出した。
オニキスは喉の奥で「ぐるる……」と嬉しそうに低く唸り、巨大な舌で肉を器用に巻き取ると、恍惚とした表情で目を細めた。
見知らぬ人間が触れれば一瞬で消し炭にするはずの誇り高き竜が、まるで餌をもらう子犬のように尻尾を左右に揺らしている。
(……我が竜が、手懐けられている……?)
ルーファスは我が目を疑った。
夢でも見ているのかと眉間を押さえたその時、カチャリと静かな足音がして、部屋の扉が開いた。
庭から戻ってきた少女が、木桶を片手に部屋に入ってくる。
ルーファスが身を起こしているのを見ると、彼女は驚く風でもなく、ただ薄青色の澄んだ瞳をパチクリとさせた。
「あら。目が覚めたのですね」
「……お前は」
声を出そうとして、喉が酷く渇いていることに気づく。掠れた声しか出ない。
ルーファスは無意識に、抜け殻のような警戒心を張り詰めた。
「ここはどこだ。お前は何者だ……? なぜ、俺を生かした」
帝国最強の竜騎士団長としての習慣が、無防備な自分を許さない。
鋭い眼光で問い詰めるルーファスに対し、少女は眉ひとつ動かさなかった。
「ここは王国の境界、名もなき森の古い小屋です。私はただのこの家の主。そして助けた理由は昨夜申し上げた通り、庭が血で汚れるのが嫌だったからです」
淀みのない、涼やかな返答。
少女は木桶を土間に置くと、手を水で洗い、暖炉の前に歩み寄った。
暖炉の上では、黒い鉄鍋がことことと湯気を立てていた。
ふわりと、干し肉と根菜をじっくり煮込んだ、甘く香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がる。
「あのシャツは、前の持ち主が置いていったものを洗って仕立て直したものです。少し丈が短いかもしれませんが、我慢してくださいね。それと……動かない方がよろしいですよ。肋骨にヒビが入っていますから」
少女は木の器に並々と温かいスープを注ぎ、スプーンを添えて、ベッド脇の小さな卓に置いた。
湯気とともに、微かにハーブの爽やかな香りが鼻をくすぐる。
「……毒など、入っていませんから安心してください。もっとも、毒殺するくらいなら昨夜そのまま雨の中に放置していましたけれど」
「……そうではない」
ルーファスは困惑していた。
目の前の少女の態度には、媚びも、恐れも、そして何より『計算』が一切感じられなかった。
帝国の宮廷では、誰もがルーファスを「便利な兵器」か「政争の道具」としてしか見なかった。怪我をすれば舌打ちされ、戦功を挙げれば疎まれ、近づいてくる者は皆、何らかの見返りを求めていた。
だが、この少女は違う。
「……俺の名を、聞かないのか」
ルーファスが低く問うと、少女はパンを切り分けながら、ふっと小さく首を横に振った。
「聞く必要がございますか? 名乗られても困ります。高貴な方のお名前でしたら、平民の私が無礼を働いたことになってしまいますし」
「俺が、お前の命を奪うような悪人だとは思わないのか」
「悪人なら、昨夜の嵐の中で愛竜を逃がそうとしたりいたしませんよ」
少女は事も無げに言って、切り分けた黒パンの皿をスープの隣に置いた。
「ここは、誰も何者でもなくていい場所です。私にとっては、あなたはただの重傷を負った怪我人。そしてあなたにとっては、私はただの家主。それだけで十分ではありませんか?」
――何者でもなくていい場所。
その言葉が、ルーファスの乾ききった胸の奥に、染み渡るように落ちていった。
『帝国最強の騎士』『ハミルトン家の恥さらし』『死神』。
これまで彼を縛り付けていた無数の呪いのような肩書が、この小さな石造りの部屋の中には、どこにも存在しなかった。
「……冷めないうちにどうぞ。胃を温めれば、少しは人心地がつきますから」
少女はそう言って、自分用のスープの器を持つと、窓辺の小さな椅子へと腰掛けた。
ルーファスを過剰に観察することもなく、ただ静かに、庭の木々を眺めながら自分の食事を始めている。
ルーファスは躊躇いがちに、木のスプーンを手に取った。
指先が微かに震える。
立ち上る湯気を吸い込み、一口、スープを口に含んだ。
――優しい味だった。
塩とハーブだけで調味された素朴な味付けなのに、野菜の甘みと肉の出汁が、弱りきった身体の隅々まで染み渡っていく。
「…………美味い」
気づけば、無意識に呟いていた。
何年ぶりだろうか。食事を「生きるための燃料」ではなく、純粋に「美味しい」と感じたのは。
窓辺の少女が、スプーンを口に運んだまま、ちらりとこちらを見て小さく微笑んだ。
「お口に合って良かったです」
その飾らない柔らかな笑顔を見た瞬間、ルーファスの胸の奥で、何かが静かに音を立てて解けていくのを感じていた。




