第3話:嵐の夜の墜落者
森の小屋での暮らしを始めて、五日目の夜。
昼過ぎから立ち込めていた灰色の雲は、日暮れとともに猛烈な雷雨へと変わっていた。
ザァザァと打ちつける大粒の雨が、小屋の屋根を激しく叩く。
木々が軋む音が遠くで響き、時折、稲妻が暗闇の窓を青白く切り裂いていた。
私は暖炉の火を少し強め、乾燥させていたカモミールの束を木箱へ片付けていた。
こんな悪天候の夜でも、暖炉の前にいれば不思議と心は落ち着いている。温かいハーブティーの湯気を吸い込みながら、本でも読もうと椅子に腰掛けた――その時だった。
――ズ、ズゥゥゥンッ!
空を裂くような異様な風切り音に続いて、大気を揺るがす凄まじい地響きが轟いた。
「……きゃっ!?」
ビリビリと窓ガラスが震え、テーブルの上のマグカップが跳ねる。
雷が落ちたのではない。何かが、凄まじい質量を持った何かが、小屋のすぐ外――庭の広場に叩きつけられたのだ。
普通なら、怯えて扉を閉め切る場面かもしれない。
けれど、ここは私の庭だ。苦労して土を耕し、ハーブを植え、安全な結界を張った私だけの領分。
それを荒らされるのは、たとえ天変地異であっても見過ごせない。
私は雨除けに古い革の外套を羽織り、ランタンと護身用の薪割り斧を手に取った。
閂を外し、軋む木扉を押し開ける。
叩きつける雨と突風が、容赦なく私の顔を打った。
ランタンを高く掲げ、庭へと歩み出る。
泥水が跳ねる暗闇の中、稲妻が再び閃いた。
その青白い光に照らし出された光景に、私は思わず息を呑んだ。
「……嘘でしょう?」
庭の中央に、巨大なクレーターが穿たれていた。
植えたばかりのミントの茂みを押し潰すようにして横たわっていたのは、山のように巨大な、漆黒の鱗を持つ生物――。
竜だ。
それも、お伽噺に出てくるような本物の、神話級の黒竜。
分厚い皮膜の片翼は半ばから無残に折れ曲がり、全身のあちこちから濃い赤黒い血が泥水に溶け出している。苦しげに荒い息を吐き出すたび、鼻孔から煙混じりの熱風が漏れていた。
そして、その巨躯のすぐ脇。
泥の中に投げ出されるようにして、人間が倒れていた。
黒鉄の重厚な全身鎧を纏った男。
鎧は鋭利な爪か刃物で幾重にも切り裂かれ、鉄の隙間から夥しい血が流れ出している。兜は吹き飛んでおり、雨に濡れそぼった漆黒の髪と、幽鬼のように青白い横顔が露わになっていた。
――竜騎士。
しかも、この規格外の巨竜を従えるとなれば、ただの騎士ではない。
近隣の軍事大国・ガルディニア帝国が誇る、国家最強の戦力『黒竜騎士団』。これほどの古竜を相棒にする人物なら、少なくともその中枢にいる騎士に違いなかった。
「……おい、生きていますか?」
私は斧を下ろし、ランタンを足元に置いて男の肩に手をかけた。
鎧越しでも分かるほど、その身体は雨と失血で氷のように冷え切っている。
私の声に反応したのか、男の濡れた長い睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと開かれた瞳は、夜空の奥底のような、深く澄んだ紫紺色。
けれど、その瞳には生への執着が一片も宿っていなかった。
あるのは、底なしの疲弊と、すべてを諦めきった虚無だけ。
「……だ、れだ……」
掠れた、けれど低く響く男の声が、雨音に混じって途切れ途切れに届く。
「……オニキス、逃げろ……俺は、もう……いい……」
オニキスと呼ばれた黒竜が、喉の奥で悲しげに低く鳴いた。
男は私を視界に捉えながら、焦点の合わない瞳で、自嘲するように口元を歪めた。
「……構うな……放っておけ……。ここで……死なせてくれ……」
死なせてくれ。
その言葉に含まれた重みに、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
彼が誰で、どんな地獄をくぐり抜けてここへ落ちてきたのかは知らない。
けれど、その声は知っている。
すべてを背負わされ、期待に応え続け、魂をすり減らした人間が、最後に漏らす本物の悲鳴だ。
かつて、王太子妃教育の重圧に押し潰されそうになりながら、「誰にも弱音を吐けない」と自室のベッドで震えていた過去の私の姿が、ほんの少しだけ重なった。
――けれど。
私はふう、と小さく息を吐き出し、男の冷え切った手をしっかりと握り直した。
「嫌ですよ」
「……なに……?」
「死ぬのはあなたの勝手ですが、私の庭を血で汚さないでいただけますか。明日、ハーブを植え直す私の身にもなってください」
男が驚いたように目を瞠った。
死を願う男に対して掛ける言葉としては、あまりにも素っ気なく、無作法だったに違いない。
「立てますか? 無理ですね。引っ張りますから、少しは足を踏ん張ってください」
私は泥まみれになるのも構わず、軒下に立てかけてあった荷運び用の低い手押し台を引き寄せた。男の胸当ての留め具だけを外して少しでも重さを減らし、外套を敷いた台の上へ、彼自身にも残った力で身体をずらしてもらう。
それでも重い。屈強な大人の男だ。私は取っ手を両手で握り、ぬかるみに足を踏ん張った。
「……やめろ、無駄だ……重傷だぞ……巻き添えに……」
「無駄かどうかは、私が決めます。おとなしくなさい!」
公爵令嬢時代に叩き込まれた、毅然とした叱責の声が無意識に出た。
男が一瞬、気圧されたように口をつぐむ。
車輪が泥に取られるたびに何度も押し直しながら、私は必死で男を小屋の軒下まで運んでいく。
ふと視線を感じて庭を振り返ると、横たわった黒竜が、琥珀色の大きな瞳でじっと私を見ていた。敵意はない。ただ、自らの主を救おうとする人間を、祈るように見つめている。
「トカゲさんも、そこで待っていてくださいね! 大きいから家には入れませんが、彼を運んだらすぐに手当てに来ますから!」
黒竜に向かって叫ぶと、竜はふしゅる、と鼻を鳴らし、分厚い瞼を閉じて身を丸めた。私の言葉を理解したようだった。
軒下で残りの鎧も慎重に外し、荒い息を吐きながら、なんとか男を室内のマットレスの上へと移す。
暖炉の火の粉がパチリと爆ぜ、泥と血で汚れた男の姿を赤く照らし出した。
男はもう、意識を手放しかけていた。
荒い呼吸を繰り返し、青褪めた唇が小刻みに震えている。
「待っていてください。今、火を焚いて、薬湯を沸かしますから」
私が離れようとしたその時――。
冷たく泥まみれの逞しい指先が、ぎゅっと私のエプロンの裾を掴んだ。
「……なぜ……」
熱に浮かされた、掠れた声。
「……なぜ、名も知らぬ俺を……助ける……」
私は立ち止まり、握られたエプロンを見つめた。
そして、静かに、けれど迷いのない声で答えた。
「名前なんて、知らなくて結構です。私もあなたも、ここでは何者でもありませんから」
そう言って、私は男の冷えた手をそっと外し、暖炉の上に薬草を入れた大鍋をかけた。
外の嵐は、まだ止みそうにない。
けれど私の小さな小屋の中には、二人分の、確かに生きている呼吸の音が満ちていた。




